Encounter:始まりはすぐそこに……

皆さま、おひさしぶりです。木之本まい’ん です。

手前都合により前回の投稿からずいぶんお待たせしてしまいまして
次の投稿を待っていてくれた方には大変申し訳なく……(いるのかな?w)

さて、前回は軽い自己紹介から始まり、全国ハイスコア集計に関する
事前知識のご紹介をさせていただきました。

最後に「ハイスコアバトルに身を投じたころの思い出や、ゲームへのアプローチなど
自分視点で色々語っていきたいと思います。」なんて偉そうに書いてしまいましたが
書き始めると構成がまとまらず、三度書き直した始末……

結果、今回はと言いますと、若かりし少年時代当時のエピソードをかいつまんで
語りつつ、全国ハイスコア集計という遊びに興じるまでの思い出話をしていこうかなと。

ざっと思い出してみても余裕で累計300タイトル以上ものアーケードゲームを遊んできたので
1つずつ話していくと1年かけても終わる訳がありません。

ですので、鍵となるゲームを引き合いに出しつつ、かいつまんでなるべくざっくりと
話していこうと思います。
そう言いつつも最終的に長文投稿になってしまいましたが
お付き合いして
頂けると嬉しいです。

No gameno life

とある昭和の時代、四国の中でも一番本土から離れた高知県。
さらにそのど真ん中に位置している高知市で、私はアーケードゲームを
1コインで最後までクリア、もしくは周回プレイすることに興じていました。

20歳で上京するまでの間、この高知市には把握してただけでも、のべ30店舗前後の
ゲームコーナーやゲーム場があったりして。
今になって思えば、田舎ながらも実に充実した環境だったと思います。

どの店も大抵テーブル台が6~8台ぐらい置いてある小規模店舗だったうえに
店舗ごとに同じゲームはほとんど置いてなかったから

 「あのゲームやりたいから今日はA店行こう」とか。
 「今日はお金ないから、時間潰せるゲームがあるB店に行こう」

という感じで、高校生になるまでは特にホームとするゲーセンはなく
徒歩や自転車に乗って東奔西走して、その方面にあるゲーム場をハシゴするのが
日々のパターンでしたね。

ちょっと歩けば新しいゲーセンが見つかり、新しいゲームと出会えた。
そんな時代が今となっては懐かしいですね……。

■邂逅 ~アーケードゲーム~

私の記憶が確かならば……初アーケードゲームは「サーカス」でした。
知ってますかね? 俗に「風船割りゲーム」ともいわれてました。

それから「ブロック崩し」系、そして「インベーダー」系など遊びましたか。
この頃は小4ぐらいかな。

ここで家庭事情で色々あってアーケードゲームからは完全に興味を失い
いきなり「釣り」に目覚めますw

当時住んでたとこはちょっと歩けば川、港、池とか近い場所にあったので
ウキ釣り、投げ釣り、生き餌、練り餌、サビキにルアーと
もう毎日色んな釣りを楽しんでましたね。
ゲームしてなかったら、釣りプロの道をいく世界線もあったかもしれないw

そんな毎日を繰り返し、アーケードゲーム的には空白の2年間を過ごした私は
近くの公立中学校に入学します。

学校で勉強した後は、家庭事情で帰宅して家事を行わなければいけない生活を
送っていたのですが、ある日たまたま級友たちに一緒に帰ろうと誘われました。

彼らは私とは違う小学校区だったので私の帰宅方向とは逆方向。
少しぐらいなら寄り道もいいかと一緒に歩いていくと、すぐに学校の近くにある
プラモ屋に入ろうと誘われます。

こう見えてもゲーム、釣り以外にも漫画・アニメはそれなりに、ガンプラをはじめ
各種スケールモデルのプラモも小学校時代からそれなりに嗜んできたのですが
家庭事情が
変わったことで、日々少ない小遣いしかもらえない状況で、こういうの見ると
欲しくなるから
入らないようにしてたのです。

でも友人たちの誘いを無下に断るわけにもいかず、二つ返事で入店しました。

思えばこの寄り道が、私のゲーム人生の大きな分岐路だったのかもしれません……

■一見怪しい店構えこそ昭和ゲームコーナーの証

そのプラモ屋は中学校正門前から30mほど西側にありました。
店の名前は「戸梶(とかじ)模型店」だったかな?

店内に入ると古い民家の匂いを感じる店舗で、木棚には基本的にスケールモデルの
プラモが並べられておりガンプラはそんなに多くはなかったように記憶しています。

奥には併設の卓球場があり3面ほどあったような……結構敷地面積はあったかと思います。

初めての店内を見回していると、店舗の一角にプラモを置いてないスペースがありました。
そこを覗いてみると……テーブル筐体が6台ほど設置されていたのです。

小学生時代やっていたこともあり、インベーダーかな?と思いつつ画面を覗き込んで
見てみると、モノクロ画面や色付きセロファンで表現されていた、古の
ゲーム機たちが
いつの間にか様相を変え、鮮やかな「色」が付いて動いていたのです。

それを見た瞬間「すげー! 綺麗になってる!?」と驚き、ゲームに対する興味が
心の中で急上昇し始めたのを覚えています。

確かこの時には「オズマウォーズ」「ヘッドオン」「ギャラクシーウォーズ」
「ムーンクレスタ」「ジャングラー」等が置いてあった記憶。

そして、このあとさらなる新事実が耳に入ってきました。

このプラモ屋の前の道路を挟んで向かいにある一軒の二階建て民家。
この1階正面入口が、何やら大判の色セロハンを貼ったガラス戸になっていました。

怪しい家だなあと訝しんでいたのですが、どうやら同じクラスだった不良のA君の家ということもわかり、なおさら入るのを躊躇っていたところ、級友たちは何の躊躇いもなく
怪しいガラス戸をあけて慣れた感じで
入っていきます。

おそるおそる級友たちのあとについて入っていくと……
そこには向かいの戸梶とは違ったラインナップのテーブル筐体ゲームが10台ほど
薄暗い店内に置かれていました

ここからは年齢関係なくゲーマーの皆なら共感するだろう、よくある話。

昼食代にと親からもらった数百円のお金で最低限の食事しか摂らず、残りをゲーム代に
充てる生活に変貌するわけです。

地元には¥10ゲームなんて無く基本料金は¥50だったので、回数多く遊べなかったけれど
友人たちのプレイを見つつ交代で遊んでたから、少ない小遣いでも十分楽しく遊べてました。

ちなみにこの中学校最寄り2店での当時のラインナップをどんな感じで遊んでたか
思い出してみると……

パックマン:鍵の10面ぐらい
スクランブル:9周目ぐらい
ジャンプバグ:7周目ぐらい
ギャラガ:100万点超え
スペースパニック:13面ぐらい
クラッシュローラー:2周目の足跡面
カンガルー:6周目ぐらい
クレイジークライマー:2周目4面
フリスキートム:6面ぐらい
ドンキーコング:6周目ぐらい
フロッガー:10面ぐらい

確かこの頃はこれぐらいのプレイ内容で遊んでましたね。

当時は、友人たちもそんなに突出してゲームが上手な訳でもなく、そんな友人たち以外の
プレイを見る機会が無かったから、
ほとんど独学で攻略を考えてプレイを磨いていました。

そのおかげか、田舎の中坊なりには、それなりに遊べてたんじゃないかなと思います。

この頃はまだ小学校から上がってほどない中1時代。
中2以降はゼビウスをはじめとするナムコ黄金期のゲームたちに加えて各社のゲームも
面白いものがたくさんリリースされたので、さらに多くのゲームに触れあえた時期でしたね。

この辺も真面目に一つ一つ語り始めたら本当に時間と文字数が足らないわけで……
さっさと話を進めるとしましょう。

■負けたくないことに理由っている?

さて、ようやく中学生編になったので、そろそろハイスコアにまつわる話を始めていきましょう(ぉぃ

ハイスコアを意識し始めたのは中2の頃。この時代にマイコンブームの波が直撃しました。

すでに色々なアーケードゲームに夢中になっていた私は……

「ゲームはコンピュータで動いている=マイクロコンピュータ(マイコン)を
覚えれば自分でもゲームが作れるんじゃないか?」

ゲームがどうやって構成されているのか知らない子供らしい短絡的な考えからくる興味と
探求心が勝り、私はお金も持たず一目散に書店に立ち読みに走りますw

そんなマイコンブームですから簡単にプログラムが学べるということで、簡易言語である
BASIC(ベーシック)を普及すべく色々な関連雑誌が出ていました。

書店で目を皿にして色んな本を立ち読みしてると、ふと一冊のBASIC関連雑誌が
目にとまりました。

この雑誌こそ、ハイスコアだけでなく、40代以上のゲーム製作経験者なら知らない人はいない
あろう情報誌「マイコンBASICマガジン(略:ベーマガ)でした。

おもむろに手を伸ばして、パラパラとページを読み進めると、この雑誌には当時各社から
販売されていた多種のマイコンやポケコンのBASICプログラムが
非常に多く掲載されて
いました。

これらのプログラムをマイコンで入力すれば投稿されているゲームを動かして遊べるんだなと
思いながらページを進めていくと、
そこに中綴じの小冊子が挟まれていることに気付きます。

その小冊子の表紙には「SUPER soft MAGAZINE」のロゴとともに、大きく
ゼビウスの自機
「ソルバルウ」の美麗なイラストが描かれているじゃないですか!

その瞬間、もう心が躍りましたね。

「なんだ、この本は!?」
「マイコンの本なのにゲームセンターのゲームのことが載ってるぞ!?」

いま手元に現物が無いので、どういう記事が書かれていたかまでは覚えていないのですが
すごく貴重な本に出会えた衝撃はおぼろげに残っています。

その出会いから翌月後、最新号の「ベーマガ」を手に取り、コーディングの意味を
半信半疑で読み取りつつ1ページずつ丹念に読み進めていたら、ふと
とあるページに
目が止まりました。

BASICのコードやゲームの紹介記事、もちろん広告でもないその文字だけのページには
ゼビウスで
1000万点ハイスコア達成者の名前がずら~~と列記されていたのです。

もちろん当時発売されていた他のゲームも、多くのハイスコアとその達成者名が
記載されていました。

これが全国ハイスコア集計ページとのファーストコンタクト。

ゼビウスが映し出すそのゲーム画面の美麗さに驚き、私も夢中になってそれなりに
ツッコんで遊んではいたけど、なんか苦手意識があって
かなり苦戦した記憶しかありません……

当時500万点程度しかスコアを出せなかったこともあり、このハイスコアページの存在には
目を丸くして驚きましたね。

一つは商業誌でゲームのハイスコア集計、しかも日本各地にあるゲーセンのプレイヤーの
名前を掲載していること。

二つ目は自分が苦手なゼビウスで、1000万点という途方もないスコアを叩き出しているという
プレイヤーたちがこれだけ多くいるという
事実に……。

「世の中、凄い奴らがこんなにいるんだ……」
「そこそこゲーム上手いと思ってたけど、自分なんかまだまだじゃん……」

そんなに長く伸びていなかった鼻っ柱ですが、小気味良い音を鳴らして「ポキッ」と
折られちゃいましたw

特に未来へのビジョンがない日々を子供らしく遊んでいた中坊の私。
内向的で腕っぷしも口も立たないおとなしい性格の自分ですが
これでもやっぱり、男子です。

「周りから認められたい、誰かと競って勝負に勝ちたい!」

という思いは少なからず心に秘めていました。

この頃は思春期真っただ中、よくわからないけど何かにもやもやと燻ぶるような気持ちを
いつも抱えていたように
おぼえています。

そんな私の目に、このハイスコアページが飛び込んできた訳です。

驚きと悔しさ、そして全国販売される雑誌に名前を掲載されるという事実。

田舎住まいの無名の一少年が憧れる羨望の場がここにありました……

その時、私の心に小さな小さなか細い灯火がひとつ、ポッと灯ります。

今になって思えば、この出来事こそが、全国ハイスコア1位を目指すプレイという遊びに
対する
意識の種が植え付けられた瞬間であったことに間違いありません。

■さすがナムコ直営店ブランドー!そこにシビれる!あこがれるゥ!

このハイスコアページと出会って以来、「この本にハイスコアを出して載ってみたい」
という密かな野望が生まれました。

ですが、ここで大きな問題が降りかかります……

「どこの店で遊べばハイスコア申請できるんだろう?」

これはかなり致命的な問題をはらんでいました。

前述したように、私の故郷は四国の中で最大面積を持つのに、本土とは一番離れている高知県。
橋やフェリーで簡単に本州と行き来できる高松・愛媛・徳島と比べて、子供心に田舎感を感じるコンプレックスは相当なものでした。

それもそのはず、この頃のベーマガハイスコアページではナムコ直営店舗が主な掲載店と
なっている
のですが、高知にはその店舗がゼロ!

0点……もとい0店! 1店も存在しないという事実!

当たり前のようにキャロット」と名前のつくゲーセンで遊んでいた人には
この憤りと落胆する感情はわからないでしょう……
 ※これは私が上京する1990年までの記憶なので、もしかしてその後、出来てたりしたのかも?
  ちなみにセブンイレブンが高知に上陸したのは2015年。日経新聞にも載るほどの情報だったりするぐらいなので
  高知の田舎度合を察して頂けると……

バイトもできない何の収入源もない中学生に、高い四国山脈を渡るだけの旅費や宿泊費が
出せる訳もなく……

そんな田舎の高知でもゲームメーカー直営店が無かったわけじゃないんです。

高知市内には主にタイトーの直営店やリース店(?)があちこちで見られました。
当時だけでも7~8店はあったかな。

なので80年代のタイトーゲームはレアなものまでいろいろ入荷し遊べた記憶があります。
 ※「アウターゾーン」「CYCLEマー坊」「大怪獣の逆襲」……etc

あとは行きつけの駄菓子屋「明神商店」が実はアイレムのリース店で「アルマジロ(※)」
がロケテ(?)で入ってて、こっそりやりこんでたこともあったりするぐらい。
 ※多ライン移動型のムーンパトロールタイプ。のちに国内未発売と知る。
  個人的には正統な続編だと思っていたけれど…どうなのかな?

他にセガ系が強い店もあったんだけど、やはりナムコゲーを入荷させている店は少なく
だいたいは離れた場所にある小規模店舗に点在していたので遊びに行くのも一苦労でした。

だからこの頃の黄金期ナムコゲー作品に関しては意外に反応薄かったりしますね。

1983年台までは色んなゲームに手を出して、何十タイトル以上ものゲームを1クレクリア
そこそこ周回できるぐらいに遊べるレベルにはなっていたのですが、肝心のベーマガに
ハイスコア申請が
できないまま無情にも月日は流れていきました……

■持つべきものは、今も昔も……友

中学生になってからは行動範囲も広がり、他校の生徒たちともゲーセンでの交流が増えました。

この時に出会った市内でも有名な進学校に行ってたT君が、よく東京に遊びに行ってたことも
あり「PC巣鴨」「GB高田馬場」や当時、池袋サンシャイン60の地下にあった日本最大級の
ゲーセン「ザ・ゴリラ」でのエピソードをよく話してくれました。

そんなある日、彼は当時日本国内でも有名だった大規模ゲームサークル「VG2」の高知支部長
という立場になったと告白し、ゲーム
仲間内に驚きが走りますw

そんな彼から都内で流行ってるゲームのVG2最新攻略情報が都度共有され、一緒にゲーム攻略
をしていくこともありました。

中でも記憶に残っているのは「ドルアーガの塔」(1984)

私の中学校区内の外れの方にあった、とあるプレハブ小屋の中にあるゲームコーナー。
通称
「入交(いりまじり)

ここにはテーブル筐体が6~8台くらいあったかな。
隅に置かれていたドルアーガを仲間たちで囲み、T君から教えてもらった宝箱出し方メモを
見ながら、みんなであーでもないこーでもないと言いながらコンティニューをしあって
初クリアした記憶。

もちろんファミコン版はアーケードから1年後にリリースされたので、家ピコすら
できるわけが
ない時代の話。

自力で進めて20面台で限界だったこの超ムズゲームで、すでに宝の出し方がすべて
判明されて
いるなんて、都会のゲーマーは本当凄いなと当時驚嘆しつつも、こんな情報を
共有してくれるなんて「ありがたや」と安駄婆のような感謝の気持ちで、
宝箱メモを
手書きで写させてもらいましたっけ(コピー機なんて普及してなかったんだよw)

この宝箱メモのおかげで、すぐ1クレクリアできるようになったのですが、この当時の
宝の出し方は
今思い返しても全然正確なものではなくて、場所移動条件系とかは
「この辺を歩いてたら出る」とか、
かなりアバウトなものでしたから、確実にクリアできる
保証が無かったのも逆にアツかったですw

なんで書いてるこのやり方で出ないんだよー(ムキー!)」ってねw

■はじめてのいっせんまん!

あとハイスコアを意識したエピソードといえば、そうですね……
ちょっと前にtwitterで
#ゲーセンで1000万デビューしたゲーム という
ハッシュタグでTLが賑わっていたのを見たのですが、私が初めてアーケードゲームで
1000万点を達成したのも、確かこの時代です。

何のゲームで達成したのか考えてたんだけど、2択なんですよね。

まず「バルガス」(1984)が思い出されました。

バルガスはあのカプコンが会社設立後、初のビデオゲームとして発売されたシューティング
ゲームです。

このゲーム、普通に面数進めて遊ぶとかなり厳しい攻撃をしかけてきて必ずゲームオーバーを
迎えるほどに難しいゲームだと認めていたのですが、実はこのゲーム、ラスボスの
「バルガス
(?)を倒すと 5万点+1up だったかしちゃうんですよ。

察しのいい方はもうお分かりですね。

バルガス倒して、すぐに死んで、リトライでまたバルガスを倒す……

はい、永パ(永久パターン)の完成ですw

休みの日は早い時間から店に行って、ずっと1コインで残機潰しで1000万達成……
きっとあのお店の人には
「……君のような勘のいいガキは嫌いだよ」
思われてたに違いないですw

あともう一つは、データイーストの「B-WINGS」(1984)かな。

こちらもクリアする前から「ウィング稼ぎ」という技が見つかっていました。

これはBボタンを押すことで装着したパワーアップのウイングアイテムを
任意に外せるんですが、レバーを
下に入れながらBボタンを連打すると、外した直後に
また自機にウイングがくっついてしまう
ことができる技なんだけど、なんとこの動作
1回成功すると、2000点入りますw

これを画面上方から画面一番下まで入れっぱなしにしながら、Bボタンを超連打すると
4万点以上ものスコアが入るだけでなくスコアエクステンドで残機も増えてしまう
永パの完成です。

この稼ぎを繰り返し行って、確か100万点を超えた状態で全面クリアすると、クリアボーナスが
なぜか
大量に入って、9,999,999点のカンストスコアが達成されるわけです。

ここまでは自力でやってたけれど、T君から「東京では1億点出てるよ」と予想もつかない
言葉をかけられました。

訝しみながらも話を詳しく訊いてみると、何やら1000万点超えるまでウィング稼ぎをしてから
クリアすると、理由はわからないけど、
なんと一桁上がって99,999,999点までボーナス点が
入るとの情報を聞かされます……

「なにそれウソやろーww」と半分信じてないまま、翌日早速試してみたところ……

数十分間以上スコアカウンタが回り続けて、アホみたいなボーナス点が
本当に入りました。

これにはさすがにその場にいた友人たちと笑いあいましたね。

※まさかこの7年後、B-WINGS製作者の一人であるS氏と一緒に仕事することになるとは
この頃には思いもつかなかったわけで
……w

同年のゲームだけに厳密な月日までとても覚えてないけれど、このどちらかのゲームが
私の
初1000万点達成ゲームなのかなと。

小遣いを多くもらえない慎ましい生活を送っていた中学生時代は、こういうゲームには
本当何度も何度も助けられました……

そしてこの頃から90年台初頭までは周回ループゲームや同じ場所でずっと点稼ぎができる
ゲームが
多く出回ったことで

「1コインで長時間遊べることが何よりのステータス!」
「順番待ちの置きコインを諦めさせて持ち帰らせることが
 何よりの優越感、正義!」

だと思い込むほどにアレでした…いやあ若かったですねえw

こういうプレイ内容は昭和のゲーセンあるあるですね……。

■もうちっとだけ、続くんじゃ……

さて、ここからいよいよ全国ハイスコア1位デビューの話へと突入しようというところでしたが
残念ながら今回はここで打ち止め。

ざっくり書くといいつつも書き始めたら、どんなたわいもないエピソードでも次々と
書けてしまうのがマズイですね。
これからがいよいよ大事なところだというのにw

次がラストになる予定ですが、次回もまた私都合で、しばしお待ちいただくことになるかと
思います。
次回も皆さんに読みに来て頂けるよう、拙い
記憶の引き出しからあれこれと書き綴らせて
いただきます。

それではまたお会いできる時まで、ごきげんよう。