当時高校生だったとあるバーチャジャンキーの回想録 その1

●自己紹介
こんにちは、おはようございます、こんばんわ。邪影丸といいます。
ミカドの配信の視聴者か古いバーチャ勢でもないと私の名前は聞いたことない人ばっかりだと思います。

さてTZWさんから久々に連絡があり、何かと思ったら大変なバトンを受け取ってしまいました。
TZWさんは、学生の頃からにビデオでプレイを何回も拝見させていただいており、ご存じの通り連続技ビデオというゲームビデオの1ジャンルを作ったレジェンドです。
90年代後半にお仕事でご一緒してからよくしていただいているのですが、もう20年以上経ちますか、そうですか。

3人くらい前にバトンを受け取っていたスキルスミスのbug君とも繋がりがあったのですが、現在は遠いこともあって疎遠になっています。
彼の記事に出てくるスキルスミスのGONちゃんや同じコンボ勢のASRさんとかとは、ごくたまに麻雀やって肉食ったりしています。

ここまで読んでいると2D格闘ゲームのコンボとかやってそうに聞こえますが、
軽く自己紹介すると
バーチャファイター2の影使いで、バーチャファイター3のSEGA公式ビデオに出ていて、ちょろっとゲーム雑誌のライターみたいなことをやらせてもらっていた位の人間です。
ただ3の途中からほとんどやらなくなって4も少し触ってた位なので今のバーチャプレーヤーはほとんど知らないでしょうね。
今はlolをやったり、PS3やXbox360のバーチャ2をオンラインでたまにやるくらいで、バーチャの知り合いともほぼ連絡を取っていません。
このリレーブログを始めた山田哲子さんも会ったことないと思いますがが、ホームステイアキラは懐かしい名前ですね。

また私は、4人目位にバトンを受け取っていたセガールの回にちょろっと書かれていた彼の最初のゲーム友達みたいです。
セガールとは、ビーサンアキラ(東京めがね)とともに最初に一緒にチームを組んだメンバーであり、その後のアテナ杯でのチームメイトでもあり、当時は家に遊びに行ってセガサターンやったりと楽しかった思い出が色々あります。
この辺の話は後々にするとします。

●この記事について
さて、ここまで軽い自己紹介をしたところで、何を書こうか思い悩んでしまいました。
既に様々な方々が過去から現在に至るまでの色んなゲームについて書いていますので、バーチャファイター2という社会現象にまでなったゲームで当時の高校生が見た世界について書こうかなと思います。
バーチャ2を取り巻く環境は非常に特殊で後にも先にもあんな異常な状況はなかったと思っています。

当時私はホームのゲーセンはあったのですが、一緒に地元でバーチャをやる仲間がおらず、
平日は一人で地元でCPU戦を遊んでいるか、他の地域に強い相手を求めにさすらっているという少し特殊な環境だったのです。
金曜日はもちろんSPOT21に行ってましたが、その辺も後程

●ゲームセンターデビュー
さてバーチャの話をする前にアーケードゲーム歴についてお話したいと思います。
私は小学校低学年まで北九州に住んでいました。
今はわかりませんが当時の北九州はエキセントリックなお土地柄でゲームセンターに小学生が行けるような感じではなく、十円玉や五十円玉を握りしめて駄菓子屋の軒先にあるゲームをやっていました。
当時はファンタジーゾーンやドラゴンバスター、アルゴスの戦士、奇々怪界、源平討魔伝、熱血硬派くにおくん、戦いの挽歌、沙羅曼蛇、バブルボブルあたりをプレイしていた記憶があります。

その後、東京に引っ越してくるわけですが、引っ越した先が保谷市(現・西東京市)でキャベツ畑がいっぱいあって雑木林もあり、駅近くに栗林があって、牛も飼われていたりとあまりに田舎(失礼な言い方ですが小学生の当時は本当にそう思ったので)でびっくりした記憶があります。
九州の元同級生と電話したらなんで東京なのに市外局番が03じゃないのか、本当に東京に引っ越したのかと言われたり散々でした。
そんな中でゲーセンデビューをするわけですが、最初に行き始めたのがひばりが丘の南口(ジュンスカのLet’s Go ヒバリヒルズに出てくるBOOKS-Jのちょうど反対側)にあったひばりが丘SEGA。
ここでパワードリフトやオーダイン、1943なんかをやっていたわけですが特に記憶に残っているのは超絶倫人ベラボーマンとパワードリフトですね。
ひばりが丘は、ブンブン丸の地元でもあり、当時ニアミスしているはずです。また、記憶が確かならば後々ちびっ子アキラ(ちびた)をマキシマムバトルの予選で初めて認識した場所でもあります。
ただSEGAは(たしか)1play100円で小学生の私のお財布には非常に厳しいものがありました。

●ひばりが丘クラール
そんな中で見つけてしまったのが北口のひばりが丘ジローの近くにあったクラールという地下ゲーセンです。
確か入り口の看板に1play50円って書いてあったのですが、階段は狭いし中は暗いしでヤバイ雰囲気しかしないところでした。
階段を降りるときには、床に張ってある赤いビニールクロスがベトベトしてパリパリ音がしてたのを覚えています。
中に入ると壁際にはびっしりポーカーや花札が並んでいて、いつも本職(らしき)の方が座ってプレイしていました。

クラールは雰囲気もヤバく、いる人たちもヤバそう(小学生目線)だったのですがほとんどもめ事や喧嘩を見たことがありませんでした。
興奮した人がテーブル筐体を割って手を血だらけにして救急車を呼ばれたりはありましたが、その程度でした。
突出した武力があると誰もいざこざを起こさないという冷戦構造のような状態だったのだと思います。

そこでダブルドラゴンやモンスターランド、熱血高校ドッジボール、スプラッターハウス、天地を喰らう、ゴールデンアックス、コラムス、大工の源さん、ファイナルファイトなんかを遊んでいたと思います。
他にはひばりが丘や石神井公園の西友の屋上なんかにも出没していました。
あ、あと池袋にもちょろっと行ってましたね。
石神井公園の西友にはドラゴンスピリッツやバブルボブルがあったような気がします。

脱線しますがてんで「性悪キューピット」と「電影少女」で全国の小学生が色んなものに目覚めたのもこの時期でしたね。

●ストリートファイター2の発売
そんななか中学校受験も終わりかけの1991年2月にひばりが丘のSEGAにとあるアクションゲームが入荷しました。
1対1で世界各国の格闘家を倒していくという内容の、そうストリートファイター2です。
多分1を触ったことのない自分にはとてもゲームシステムも新鮮で、画面がきれいだなというのが第一印象です。

たしかSEGAでは、エアロシティに入っていたと思います。
スト2は当初から対戦していたわけではなく、当時は1人プレイ用のアクションゲームとして遊ばれていました。
私も前の人が終わるのを後ろで待ち、ゲームオーバーになったら変わるというのをやっていた記憶があります。
また対戦台(対戦ハーネス)という概念がなく、普通の筐体にスト2用の専用コンパネが入っていました。
ちなみに対戦台の起源については、熊本説、福岡説、下井草説といろいろあるので調べると面白いかもしれません。

●対戦文化の始まり
しばらくは他のゲーム(大工の源さん、出たな!!ツインビー、クイズ殿様の野望、パロディウスだ、キング・オブ・ザ・モンスターズ、WWFなどなど)を遊びながらスト2を遊んでました。
そうした中学生になった春か初夏位のある日、ひばりが丘でスト2をやっていたところ突然知らないお兄さんに「乱入していいですか?」と声をかけられます。
そんな文化もなかったうえに中学生になったばかりの子供は混乱しながらも「どうぞ」と言って初めての対戦がはじまりました。
対戦のノウハウなどもなかった時なので、ブランカでビリビリしてたらそこに相手が飛び込んでくるような幼稚な対戦でしたが勝ったような記憶があります。
いきなり小学生に乱入してくるヤバいやつだと思っていましたが、今考えると一人で遊んでる子供を楽しませようとしたいい人だったのかもしれません。

とにもかくにも対戦文化の始まりです。
当時は乱入求むみたいなポップが筐体の上にあり、それを出していると対戦可能という意思表示だったのですがそれを見てる人なんていなかったと思います。
「乱入してもいいですか?」と声をかけて対戦がはじまり終わったら「ありがとうございました」で対戦が終わるというほのぼのとしたものでした。
まあ対戦台ではなく、横並びの隣同士で対戦するんですから当たり前ですよね。
そのうち吉祥寺とかの大きなゲーセンには、対戦専用台なるものが出始め、ごく少数の1人用と棲み分けられていきました。

●ソロプレーヤー
さてここまで書いていて気づかれた方もいるかもしれませんが、ゲーセン友達みたいなものが一人も出てきません。
私は、塾や習い事に行く前にゲーセン通いをしていたので基本一人で行ってました。
電影少女でPTAが大問題になっているような時代だったのでゲーセンなんて不良のたまり場だと言われており、特にクラールなんかに小学生が一人でよく行ってたなと思います。
また行ってたゲーセンも様々だったのでそこで友達作る機会もありませんでした。
なのでホームのゲーセンっていうのもなかったんです。
というわけで、ちょこちょこゲーセンに現れる小学生って感じでゲームをやってました。
ゲーセン友達もいないため情報も何もなく、純粋にプレイだけで学んでいたのでこの当時のゲームの攻略情報は未だに知らなかったりします。

●スト2ブーム
そんなソロプレーヤーも中学に入り、初めてのゲーセン友達ができます。
スト2が出て数か月たち、夏くらいには全国大会が行われ、空前のスト2ブームが来ます。
中学校にもその影響は来て、クラスメイトとかとゲーセンに行くことがよくありました。
学校が渋谷のほうだったので、三軒茶屋でゲーセン行くか、渋谷でゲーセン、カラオケ、ビリヤードとかが多かったですね。
三茶のUFOというゲーセンで同級生がカツアゲされて、空手部の先輩が助けたりとかありました。
当時は対戦技術も全然なく、リュウで飛込から小足連打でぴよらせて、小パン昇竜出せりゃめちゃうめえって感じでした。
あとはチュンリーで歩き中パン連打するやつとか、ガイル3段(飛込大パン→しゃがみ中パン→サマー)とかそんなだった気がします。
三茶のゲーセンにはマチ、ハメ禁止って台に書かれてた記憶があります。
このような注意書きは当時色んなゲーセンに張ってありました。
あと筐体の画面の部分にコインを並べたり、コイン投入口の近くにコインを積み上げたりする予約コインもこの時期独特の文化だったような気がします


●T君
さて、そんなクラスメイトの中で、吉祥寺経由で帰る方向が同じT君という子がいました。
彼もゲーセン好きで、彼の地元の青梅でもゲーセンによく行っていました。
私の中学時代は、部活動かそれ以外はほとんど彼とつるんでいました。
最初は吉祥寺のターミナルエコー(後のユザワヤ)近くの高架下にあるゲーセン。今はequteなのかな?とかに行ってました。

その後も含めてなんですが中高時代は本当に色んなゲーセンに行ってた気がします。
吉祥寺が中心でしたが、三茶、渋谷、池尻大橋、下北沢、立川あたりはちょこちょこ行ってたと思います。
渋谷でカラオケ、ビリヤードをやって、センター街のイラン人から買い物をするついでにゲーセンもよく行ってました。
渋谷SEGAは高いのであんま行ってなくて、渋谷会館やみとやセンター街中ほどにある地下と2階がある店なんかに行った気がします。
あと井の頭線の高架下にあったゲーセンでは、野球拳がおいてあり、金をつぎ込みまくって景品のパンティを取ってるサラリーマンがうらやましかったですね。
下北のゲーセン(LASVEGASだったかな)にはナイトストライカーやスペースハリアーがあったような記憶があります。

●ビーサンアキラとの出会い
翌年になり92年3月にスト2ダッシュが発売されました。
SEが大幅に改善され「はどーけん」がステレオで聞こえたのに衝撃を受けたのを覚えています。
ちまたの対戦レベルも大幅に上がって連続技も当たり前になり、待ちガイルやサイコハメが流行ったのもこの頃だと思います。
また、この時にはもう対戦台が出回ってきて横並びの対戦はほとんどなくなりました。
そんな中でT君から、地元の1個上の先輩と遊ばない?と連れてきたのが、後のビーサンアキラ(東京めがね)である。
彼とは未だに連絡を取ったりするので、もう28年もの付き合いになるから恐ろしい。
当時はポケベルでやり取りしてました。
彼らは東青梅のアミーゴというゲーセンがホームだったのだが、実は2,3回位しか遊びに行ったことはありません。
ですが福生駅前にあったAir Forceというゲーセン(3階か4階くらいにあった)に横田基地の軍人ガイル(横田基地のアメリカ空軍のガイル使いだから勝手にそう呼んでいた)がいるから見に行こうとか、立川に強いやつがいたとか、河辺アミュージアムが盛んだから行こうとか色んな所に出張はしていました。
当時、中2だったのだが、よくもまあ電車に1時間も乗って色んなゲーセンに遊びに行ったものだと思う。
ちなみに当時、河辺のゲームショップには故・大塚ギチ氏がバイトしており、ビーサンアキラとは顔見知りだったそうです。

●吉祥寺GoldRush
当時は中学生2年生でお金がないため対戦格闘ゲームを続けるためには勝ち続けなければいけませんでした。
強すぎず、かつ対戦相手が豊富なゲーセンが理想的でした。
そのため当時はお金を持っていて何回も入ってきてくれるサラリーマンはカモ(失礼)だと思ってました。
例えばサンロードの近くにあったZestなんかは対戦レベルは低いのですが、1回100円なのと対戦相手が少ないことがネックでした。
おしゃれな店なので彼女連れのサラリーマンとかは多くいたんですが、女連れで負けるとすぐ別のゲームに行ってしまうのです。
そんな中、ついに理想的なゲームセンターをIsetan(現・コピス)の近くで見つけました。
それがGoldRushです。
GoldRushは、100円で2枚のメダルを借りて、そのメダル1回で1ゲームだったので1回50円でゲームができる店でした。
前出のクラールも同様の形式で同じメダルだったので系列店だったのかな?
吉祥寺は1回50円のゲーセンが他になかったので、対戦がすごく盛んな店でした。
つまり勝ち続ければお金が減らないという理想的な環境でした。
また、1回1メダルなのでSigmaのダブルアップなどのポーカーゲームや花札、ワールドダービーなどの競馬ゲームでメダルを増やすこともできました。
1000枚なんて出した日には5万円分なのでしばらくはゲーム代の心配がなかったりしました。
知ってる人では何千枚も出して店に預けている人もいましたが、そういう人は根っからのギャンブラーなので1か月ももたず無くなってましたが・・・。

●GoldRushの店員達
ここのゲーセンの店員さんは濃い人が多く、色々と無茶苦茶でした。
最初は大学生の常連でバイトで入るようになった佐治さん。のちのバーチャ勢の過激マンで現・ファミ通の佐治キクオ。
佐治さんには本当にお世話になって、一時期居候をさせてもらったりもしていました。
当時、ポーカーで客が大量にメダルを投入するのを見ると、あとでその台をハイエナして大量にメダルを回収して、儲かると私とかT君とかにメダルを恵んでくれてたんで助かってました。
ちなみに常連で他にもそういう人が何人かいました。

あとハメホンというあだ名の店員がいて、その名の通り投げハメをしまくる本田使いなんですが、相手をおちょくるのが上手いうえに無茶苦茶強い。
大体相手がブチ切れて終わるのですが、時々表へ出ろと胸倉をつかむ人もいました。
ハメホンは見た目が細くて色白で笑い顔みたいな感じでいかにも弱そうなんですが、実際は喧嘩が強く、絡まれた相手と出て行っては一人で帰ってくるということが何度もあったそうです。

そんな環境だったせいもあり、台パン・台蹴りや灰皿ソニック、台が押される(筐体白虎)、プレイ中に後ろから膝けり(サディスティックハンギングニー)など様々な技が見られるゲーセンでした。
ただし、店長は厳しかったのでそのような行為や喧嘩があると両者出入り禁止になってました。
ぶっちゃけていうと店員が一番出入り禁止に近いというとんでもない状況だったわけですが。

●ろくでなしブルース
普段吉祥寺にたむろして、渋谷とかで遊んでいた私にこの漫画は思いっきり刺さってました。
伊太利屋をはじめ、漫画に出てくるロケーションはほとんど知ってましたし、新たに見つけると大興奮してました。
昔、池袋の塾に通っていて、浅草にも住んでいたのでマンガに出てきた四天王は制覇した感じですが不思議な縁を感じます。

●様々な格闘ゲームとその攻略
この時期は格闘ゲーム全盛期で毎月のように新しい格ゲーがどんどん出ていました。
スト2シリーズを中心に何でも手を出していたんですが、特にキャラのこだわりはなく、どのゲームもほぼ全キャラを使用していました。
餓狼シリーズ、竜虎シリーズ、サムスピ、ガンガン行進曲、富士山バスター、ワーヒー、豪血寺などなど色々手を出してました。
基本は地元で勝てて、好きなことができるキャラをやってた感じです。
ガロスぺは量産型キムが多かったのでビリーでやっつけるか、ダックで小足空キャンブレイクスパイラルでハメ殺したりしてました。
ダックは(多分)そんなに強くないので対戦相手がよく入ってくれるので、露骨にブレイクスパイラルでハメるとバレるので小足空キャン入れて、ハメじゃないでしょ?って感じでやってました
ワーヒー2はマッドマン、サムスピはアースクエイクとか使ってた気がします。
スト2だと、ダッシュは小足アッパーの同時押ししたいだけのリュウ・ケン。ターボはダッシュアッパーダッシュアッパーしたいだけのバイソン、XはダルシムかダブルタイフーンしたいだけのTホークって感じでした。
まあクソキャラばっかりなんですが、基本は当時流行っている強キャラにキャラ勝ちできるか、ハメ殺しできるキャラって感じでやってました。

強キャラは意識的に使わないようにしていました。なぜなら強キャラで連勝していると対戦相手が入ってこなくなるからです。
また接待プレイにも気を使っていました。
弱い相手にも1ラウンドは取らせたり、相手のやりたいことにわざと付き合ったりと乱入してもらうための努力は結構やってましたね。
でもまあこの時、ほとんど吉祥寺でしかやってなかったので2Dはそれほど強いというほどではなかったと思います。

あーあと当時独特の文化として対戦中に誘ってダブルKOでラウンドを稼いで長く楽しむっていうのもありましたね。
リュウケンとかだと、体力を調整したうえで、立ち大キックブンブン振り回して、そこに立ち大キックを合わせてダブルKOにしたりとか。
飛び道具ガードさせて、体力調整してドローとか。
知らない人同士で顔も見えないのによくやってたもんだと思います。
時々裏切りの昇竜とかやるやついてブチ切れもんです。

TZWさんのビデオを見たり、YSBの存在を知ったのもこの頃くらいだったと思います。
でも、この当時は遠征に行こうとかは特に考えていませんでした。
地元で勝ててりゃ楽しめるしいいかなといった感じです。

あ、この頃にひばりが丘に新しくできたフロントロウというゲーセンのスト2大会とかに出場したりしてました。
後で知ったのですが子のゲーセンはブンブン丸がバイトしてたか常連だったかしてたらしいので、ここでもニアミスしてますね。


と、長くなったので今回はここまで、次回はバーチャファイター2との出会いから書きたいと思います。