当時高校生だったとあるバーチャジャンキーの回想録 その2

こんにちは、おはようございます、こんばんわ。邪影丸です
というわけで前回の続きから

●バーチャファイター2
高校1年になった1994年の11月についにバーチャファイター2が発売されます。
発売直後は、GoldRushに入荷されなかったため、渋谷のSEGAや下北沢のゲーセンでプレイしてました。
このゲームは多くの人がそうであったように、オープニングの演武に感激を覚えプレイをしてました。
ですが最初にプレイした感想は、なんだこれ?です。
ガードはボタンでやらなきゃいけないし、投げは全然入らないし、同じコマンド入れてるのにキャラによって出る技が全然違うし、といった感じでした。
最初は今までのゲームに比べれば全然勝てませんでしたが、コツをつかんで徐々に勝てるようになってきます。
なんでそんなゲームを続けていたのかといえば、対戦相手に困らなかったからです。
特にサラリーマンのような年上のプレーヤーが多く勝てなくても乱入してくるので続けていた感じです。
当時はジャッキーで、エルスピ、ダッシュハンマーから大ダウン。相手が突っ込んできたらサイドフックキックといった感じで、今までのゲームで培った当て勘に頼って戦っていた感じです。
ただ当初は1Play100円のゲーセンにしかバーチャはなく、それほど本格的にはプレイしていませんでした。
そのうちにGoldRushにもバーチャ2が導入されました。
これで50円でバーチャができるようになり本格的にのめり込むようになります。

年をまたいで1995年2月12日にバーチャ2の最初の全国大会であるエターナルバトルが開催されていたことを雑誌で知ります。
また新宿が盛り上がっていることも知りますが、そこまでの興味はなく、吉祥寺で普通に対戦をしていました。

●当時の攻略本(?)事情
今はインターネットが当たり前になり、動画も含めた攻略情報が世の中に出回っていましたが当時は本の情報しかありませんでした。
ゲーメストとファミ通ですね。
ゲーメストは、キャサ夫、明大前ちゃっき~、マン・ザ・サタンシャーク、SHO、ぼぼしじみなどのライター陣で割と真面目に攻略情報を載せていたイメージです。
またバーチャ2のMOOKも早いうちから発売してACT1からACT3まで販売されたのかな。
まあスト2などの時代からよくお世話になってた感じです。
一線を画していたのがファミ通。
バーチャファイターTodayなるコラムで扱っていたんですが、まあ悪ノリが凄かった。
今日の一枚なるコーナーが特におかしくて、ブンブン丸とか新宿ジャッキーとかルパン小島とかが上半身裸でバーチャ2の一場面を写真で再現するというよくわからないコーナー。
文面では伝えることができないので、読む機会があったらぜひ読んでください。
あと、これはもう2後期に出た本なんですが、バーチャファイターリラックス。
東京バーチャ物語と並ぶバーチャ奇書ですが、本当にぶっ飛んだ内容でした。
「鈴木裕を出せ!」とか名言ぞろいなのでぜひ読んでみてください。
今ならまだ中古が出回っています。
作者の居酒屋カゲさんはご逝去されたと風のうわさで聞きました。
SPOT21で「DiabloではPKされて耳を引きちぎられて、それを街中で目の前で落とされるんですよ。これが堪んないんですよ。」と言って笑っていたのをよく覚えています。
ご冥福をお祈りいたします。

さて話を戻して

●黒船襲来、斜上掌ラウ
1995年の春ごろ位だと思いますが、GoldRushに異常に強いラウが現れます。
それまで地元ではあまり負けなくなっていたのに、そのラウにはガードすればリングアウトさせられ、割り込もうとすれば浮かされてKOされまったく勝てませんでした。
そのラウ使いは、短髪のサラリーマンで、今までカモにしてたタイプのプレーヤーに何もできず惨敗させられました。
これはいわゆる「立ち斜上」といわれた技術でこの後バーチャ2では猛威を振るいます。
しかし、この時点ではゲーメストにも載っていない、世間ではまったく知られていない技術でした。
その時は全く知らなかったのですが、実はこのプレーヤーは、バーチャ界ではレジェンドの本厚木ラウという人でした。
彼は、関東勢の関西遠征に一緒に行き、ブンブン丸や柏ジェフリーがコテンパンにやられた大門ラウから立ち斜上を教わり、関東で最強のラウになっていたのですが、当時の私は知る由もなくただただ惨殺されてました。
しかも彼の職場がすぐ近くにあったせいでちょくちょく現れるのです。

ここから私対謎のラウ使いの死闘がはじまります。

●影使い誕生
サラリーマンにボコボコにされたことが本当に悔しかった私は、この謎の技術の対策を考えます。
youtubeにも残っている第3回アテナ杯のブンブン丸vs大門ラウがこの年の6月の出来事なのですが、これはそれよりも前の話になります。
バックダッシュやしゃがみバックダッシュなども色々試したのですが、当時の技術ではすかしてもその後の差し合いで浮かされたりしていました。
そこで私の出した結論は、斜上を見てから当身を取る(実際はしゃがみダッシュが見えたらですが)でした。
当身があるのは、アキラ、パイ、影丸の3キャラ。
まずは当身コマンドが4Pと簡単だったパイを試しますが、当身をとっても他の攻め手がなく、また読みを間違えるとミドルキックで浮かされコンボで大ダメージを喰らい却下。
続いてアキラ。外門のコマンドはG4Pとコマンドが難しく、入力がずれて浮かされまくって却下。
そこで残ったのが影丸というわけです。

影の当身は2Pで下パンとの自動2択になり、ミスっても下パンなので斜上を止めることができます。
下パンがカウンターで当たればPKが繋がって、流影脚まで入って3分の1くらい体力を減らすことができます。
しかし、2.0はラウの肘よろけを喰らって、よろけ回復が遅れると斜上で浮かされて3分の2減らされるという理不尽なゲームでした。
ファジーガード(しゃがみダッシュによりしゃがみ状態を作り、立ち状態への移行時間を使って中段攻撃と投げを回避する技術。9月のマキシマムバトル以降に見つかり広まった。)やカウンター投げ(当時ブンブンがPKキャンセルジャイアントスイングを屁こき投げとして使っていたけど、カウンターで投げ確定っていうのは知られてなかった。少なくとも一般には。)もなかった当時、ダメージ負けする読み合いをし続ける苦行のような戦いを続けていました。
徐々にラウ戦にも慣れ、しゃがみが見えたら斜上掌を小手返しできるようにもなったのですが、なかなか勝ち越すことはできませんでした。
これは後々知った話なのですが、私に負け始めた本厚木ラウさんは、葛西ラウ(当時の関東トップクラスのラウの一人。)と一本ごとに交代するとかしてたらしいです。
このような、私にとってはまさしく死闘だったのです。
この死闘のおかげでこの後、バーチャ2で最強と言われていたラウにはほとんど余裕で勝ち越せるようになります。
しかし、このラウ余裕と思っていた影使いの鼻っ柱をへし折るラウ使いが後々登場します。

●ビーサンアキラ再び
中学では同級生であったTが学校をやめ、高校生になったため、一時期ビーサンアキラとはやや疎遠になってました。
お互いにバーチャ2を始めていたということで、またつるむようになります。
ビーサンからのアドバイスは、下パンPK流影脚と肘ヨロPK流影脚やってりゃ影は強いとかそんなんだったと思います。
またこのくらいの時期にGoldRushには、マスク・ド・ヒジテツ(先に兄貴の方がGoldRushによく来ていた。)や明大前チャラ夫(当時は明大前の人間だなんて知らなかった)なんかも時々来るようになります。

●渋谷SEGAの大会
バーチャ2の2回目の全国大会となるマキシマムバトルの店舗予選だったと思いますが渋谷のセンター街にあったSEGAでバーチャ2の大会が開かれたのでビーサンアキラと参加しに行きました。
そこで出会ったのがSSDとソバットを使う変わったウルフ使いのセガールです。
詳細はセガールの記事にもあるので省きますが、年が近く学校が近くにあったこともあって、その後はバイト先や家に行ったり、ちょこちょこ一緒に遊んだりしていました。
この時に優勝したのが山田というラウ使いだったと思います。後の2最強のラウ使いのビンボーラウですね。
当時ラウ戦に自信のあった私が勝てなくて、なんだこの化け物と思いました。
当時からバーチャ2の最後までビンボーラウにいい勝負できる重量級使いなんて存在しなかったんじゃないかな。
のちのちの話ですが明大前うるふぃ~がビンボーに乱入しないからやらないの?って聞いたら全然勝てないからつまんないもん、お金の無駄と言ってたのが印象的でした。

●SPOT21
ちょうどこのくらいの時期には、猛者が集うと噂(ファミ通の記事など)の金曜日のSPOT21に行くようになります。
最初に訪れた時の感想は、なんだこのゲーセンは?です。
バーチャの台が10台くらい並んでいるのですが、その周りにびっしりと隙間なく2重3重に人が取り囲んでいるのです。
大会でもこんな状況じゃないというくらい筐体に人が群がっていました。
カウンター側にバーチャの鉄人とその仲間たちが陣取り、反対側に遠征できたような連中が陣取って仲間内で回しているような状況でした。
最初に行ったときは割り込んで乱入することができず、1コインも使わずに帰った記憶があります。
お腹すいてモナカアイスは食べましたが。
そのうち立川の連中とかと一緒に行き乱入ができるようになります。
このあと3の途中まではずっとSPOT21がバーチャの聖地でした。
2020年の今年閉店ということで大変残念ですが、一つの時代が終わったということを実感します。

●マキシマムバトル予選
1995年の6月くらいからですかね。バーチャ2が出て半年くらいたったころに第2回目の全国大会、マキシマムバトルが開催されます。
マキシマムバトルの予選では、いくつかのSEGAを回ることになりました。
当時はインターネットもなかったのに大会情報をどこで仕入れてたのか覚えていませんが、ビーサンから教えてもらったりしてた気がします。
ひばりが丘のSEGAの予選では、ヤンキーとつるんでた子供が優勝してた気がします(記憶違いかもしれませんが)。
後々考えると優勝してたのがちびっ子アキラ(後のちびた)で、ヤンキーがアニアキとか打撃マンの国分寺連中だったのだと思います。
前述したビンボーラウもそうですが、当時は知らなかっただけで後々知り合いになる人たちと色んなゲーセンでニアミスしてたんでしょうね。

●マキシマムバトル関東大会
1995年8月23日 マキシマムバトルの関東大会が開催されました。
どこで予選を突破したかはもう忘れてしまいましたが、無事に店舗予選を抜け関東大会に出ることができました。
今じゃ考えられないのですが、全国大会でもないのに関東大会の会場は新横浜プリンスホテルの大広間という豪華さ。
ですが、入り口でいきなり問題が起きました。
立て看板があり、サンダルの方は入らないでくださいって書いてあったのです。
で、隣にはビーチサンダルをはいたビーサンアキラがいるわけです。
しばらく考えた彼の解決策は単純でした、両手にビーサンを持ち、裸足でプリンスホテルのロビーを抜けていったのです。
サンダルはダメでも裸足がダメとは書いていないという一休さん状態です。

●2Pトラップ事件
関東大会で順調に勝ち上がり、ベスト16くらいから舞台上になったのですが、そこで事件が起きました。
葛西ラウさんと当たったのですが、その試合で葛西さんが2Pのラウを選択したのです。
それを見てた解説のブンブン丸はあの影やりやがったとか言ってたらしいのですが、私は直接は聞いてません。
これの何が問題かというと、バーチャ2.0(2.1と区別するためにあえて2.0と書きます。)にはいくつかのバグがありました。
そのうちの一つとして2Pカラーのラウのほうが斜上掌の浮きの高さが低く、コンボが安くなるというものがあったのです。
そしてもう一つ、これは仕様なんですが1Pに座った人が、キャラにカーソルを合わせている間はそのキャラは2Pカラーしか選択できないというものです。
つまり、ラウを相手にした時に1Pを選び、ラウにカーソルを合わせておけば、2P側の人は2Pラウしか選べないという、2Pトラップという技術(?)があったのです。
それをわざとやったと汚いやつだと思われたんですね。
しかし、当時はそんなことはまったく知りませんでした。
舐められてるなぁくらいにしか思ってませんでした。
なぜかというと通常のゲーセンの対戦では、どちらかが勝っている状態またはCPU戦をやっている状態で乱入するので、2人が同時にキャラ選択する場面なんて大会以外になかったからです。
つまり、キャラ選択画面で影は2P側にあり、ラウは1P側にあったので、たまたまキャラ選択の時にカーソルが重なった場所がラウの上で、そのタイミングで葛西さんがキャラ選択したという偶然の産物だったのです。
結果として裏ではしばらく2Pトラップ影という、異名をつけられてたみたいです。
ですがラウ戦には自信があったのでほとんど斜上で浮かされることはありませんでした。
大会はその次位で負けてしまい、惜しくも全国には出られませんでしたが、ビーサンは全国に出てたと思います。

●2.1への移行と側弾コンボ
マキシマムバトルをやっている間に世の中にはバーチャファイター2.1が出回っていました。
2.1では様々なバグ(千本パンチや居合蹴りなど)が修正されたのですが、影には致命的な修正が3つ入りました。
1つ目は、肘のよろめき回復時間が短くなり、肘ヨロからPKが入らなくなったことです。
2つ目は、PKのKのダメージが29に修正され、ダウンしなくなったことです。
これにより肘ヨロ→PK→流影脚でダメージ75(だっけかな)や下パンカウンターPKなど、今までは打撃で確定で1/3持っていってた連続技がなくなったのです。
3つ目は弧円落の浮きが変わり、相手の体力が半分以上あるうちは、弧円落→浮身膝蹴り→P→PPPKというダメージ100以上持っていくコンボが入らなくなりました。
結果として影は不遇の時代に入り、関東から影使いがいなくなっていきます。
そこで弧円落のコンボとして出回っていったのが側弾コンボです、4PKキャンセルを2回繰り返して、その後に側弾からのPPPKを入れるというものです。
コマンドでいうと4PKG4PKG4PPPKなんですが、ここに2つ問題が起きました。

一つは元々2Dでやっていた私はレバーをワイン持ちしていたので、右下が入れづらく1P側から弧円落を入れると非常にきつかったのです。
これはマキシマムバトル以降出回るファジーガードを身に着けるためにもレバーの持ち方を斜めに連続して入れやすい「かぶせ」に変えました。
そのせいで2Dの頃にできてた小足空キャンブレスパやNコパダブルタイフーンなど回し系の色々な技術が今はできなくなってしまいました。

二つ目は、ここまでボタンを人差し指と中指の2本だけで操作していたためPKGPKGができなかったのです。
人差し指を(人)、中指を(中)とすると
P(人)、K(中)、G(人)、P(中)ときて次にKを押す指がなくなったのです。
これまで、バイソンの鷹の爪(親指、薬指、小指でキックボタンを3つ押しながらターンパンチをため、人差し指と中指でパンチを押す技術)やSNK系のBC同時押し位でしか親指を使ってこなかった私には親指を使うことは非常に問題でした。
そこで苦肉の策で考えたのが側弾下パンPPPKというオリジナルのコンボです。
やってみるとわかるのですが、コンボの途中でしゃがみダッシュをしたうえで目押しでパンチを当てなきゃいけない難しいコンボなので、側弾一発は自分以外で使ってる人を見たことはありません。
難易度は高いのですが、これならPKGは一回だけなので指の数は足ります。
後々親指を使うようにしてから、側弾が一回増えてダメージが非常に高いコンボになったのですが、これも身内以外でできる人間をほとんど見たことがありません。
普通の側弾3発よりダメージも高く、運ぶ距離も長いいいコンボなんですけどね。
というわけで、2.1に移行した結果、レバーの持ち方とボタンの押し方が変わるという奇妙な結果となりました。

●放浪記
次に問題となったのが、お手本にする影使いがいなくなったことです。
行き詰ってた私は誰かを参考にしたかったのですが、前述の通り2.1で影使いはほとんどいなくなり、ゲーセンではアキラ、ラウばっかりになりました。
キャサ夫もバーチャから離れたといううわさを聞き、大変困ってしまいました。
ここから平日に色んなゲーセンを回って影使いを探し、金曜日はSPOTに行くという放浪がはじまります。
西荻や立川が盛んという話を聞いては行ってみたりしていました。
石神井カゲというプレーヤーがいると聞いては石神井公園のゲーセンを捜し歩いたり、秋葉にKOカゲという奴がいるときいては秋葉に行ったりしてみました。

そんな中で思い出深いのは、明大前のナミキが盛んという話を聞き、学校帰りに行ってみたのですが時間が早いこともあり誰もバーチャをやってませんでした。
ふと見るとぷよ通の対戦台があり、折り返し連鎖位なら作れるようになってた私はちょっとやってみるかと乱入してみました。
結果、ありえないくらいぼこぼこにされました。
知らなかったのですが、ナミキはぷよぷよの聖地でもあり、対戦したのは当時全一?のひげぷよという人だったようです。
そのせいでバーチャプレーヤーなのにナミキの思い出はぷよぷよでボコられたことだったりします。

あーあと立川のゲーセンで某暴走族Rの総長(ゲーセンで紙パックの鬼殺し飲んでて前歯は全部なかった)に絡まれたとかありましたね。
いきなりメンチ切られて、「なんすか?」ってきいたら、「お前トッポい格好してんな、ずっとこっち見てただろ?」と言われ、「画面見てただけです」。
「お前舐めてんのか?」といわれ、「いや舐めてないです」って時限爆弾を持ちながら一問一答をするという貴重な体験をしました。
最終的にはなぜか気に入られて、このゲーセンで何かあったらこいつに言えと巨人を紹介されたとかありましたね。
歯折られたから両腕折ったんだよとか色々教えてもらったんですが、一言でも回答を間違ってたら私が入院してたんでしょうね。
クラールで鍛えられた怖い人センサーが役に立った瞬間です。

池袋イルパリオ、GIGO、六本木GIGOとか名前を聞いたことがある都内のゲーセンはほとんど回ったんじゃないかな。

というわけでまた長くなってしまったので今回はここまで
次回は第4回アテナ杯のお話からにしたいと思います。