格ゲーライフを振り返って(RX)

ご挨拶

はじめまして、RXです。
Street Fighter III 3rd Strike (サード) でユリアンを使っているプレイヤーです。

生まれてこの方『さいたま』にずっと住んでます。

バトンを渡してくれた杉山(オスギ)とは、ほぼサード稼働当初からの付き合いで、闘劇などイベントではたびたびチームを組んだりと共に切磋琢磨してきた仲です。

最近だと2021年年始の Special FT10 での対戦相手でした。

Special FT10 は、先に10試合勝ったほうが勝者というルールのもと勝負をつける招待制イベントで、コロナ禍で落ち込んでいた格ゲー界隈を盛り上げるべく、ゲームニュートン主催で始まったイベントです。

これまでに4回開催されており、サードやそれ以外のタイトルも面白くて熱い試合が目白押しです。

未視聴な方は酒の肴にでもして、ぜひ観戦いただけたら嬉しいです。

▼2021年1月の サード Special FT10 Round1 『RX vs 杉山』

 

格ゲーライフを振り返って

今回バトンを受け取って何を書こうかなと考えた結果『格ゲーライフを振り返って』に落ち着きました。

2021年に40歳となった今、格ゲーを中心に人生を振り返ってみたら何を書き綴ることになるんだろう…と個人的にも興味がありました。

人生を振り返る手法として『ライフラインチャート』という方法があります。

横軸に時間、縦軸に満足度をおいて、フリーハンドでよいので線を描いて、満足度がどのように変わってきたのか、ライフイベントも照らして振り返る、というシンプルな方法です。

(グループワークで他人と共有すれば相手の事を色々知れたり、意見をもらって自分の人生への気付きを得られたりもできます)

今回これにならって『格ゲーライフラインチャート』を作ってみました。
横軸は同じく時間、縦軸には格ゲーモチベをおいて線を描いてみたら、こんな線になりました。

モチベに波はあるものの、格ゲーの事を一切気にしなくなったり、格ゲーもう嫌いみたいなネガティブに転じたことはありませんでした。

最近のモチベが妙に低いように見えますが、一度格ゲーの楽しさに気付いてからは常にモチベは持てて昔も今もずっとプラスです。正直昔のモチベは高過ぎだったなと今にして思います。

大雑把にフェーズをわけるとこんな感じです。

フェーズ毎に自分がどう格ゲーと過ごしてきて何を感じてきたか、とても長くなりますが書き綴っていこうと思います。

 

1. 格ゲーとの出会い(小・中学期)

それまでゲームといえばファミコンやスーファミのRPGやアクションに夢中で、格ゲーには興味なかった自分が格ゲーに夢中になり始めたのは小学6年生の時。

当時、実家の裏には、住宅の並びに八百屋や薬局などお店もポツポツある普通の通りがあり、そんな通りにある日、服屋がオープンしました。

外観はほぼ白一色の一軒家でオシャレな雰囲気。

そんな服屋の入り口の横には何故か1台のネオジオ筐体…
青い屋根のついてるコイツです。

服屋の雰囲気にミスマッチながら、筐体には興味津々だったので、お店の前を通ってはゲーム音が漏れ聞こえる筐体を覗いてました。

筐体「がろう~でんせつ… あらたなるたたかい…!」

餓狼伝説2

自分を格ゲーの世界に引きずり込んだ根源です。

当時と今の時代、大きく違うのは筐体で遊べるゲームは高画質・高音質の最先端なゲームである事。
綺麗なグラフィックのキャラクターがカッコよく声を出して必殺技を振るって闘う様子が子供心をくすぐり、ワクワクさせてくれたのを覚えています。

特にアンディの斬影拳とテリーのバーンナックルが好きでした。
今でも斬影拳ヒット時の強烈なクリーンヒットを感じさせてくれるグラフィックのキレと効果音は極上だったなと思います。

当時ゲーセンは危ない場所で足を運べなかったものの、この服屋へは家から歩いて5分なので、100円が手に入っては餓狼伝説2を遊んでました。

格ゲー好きな同級生もいて、長崎屋(大型スーパー)のゲームコーナーへ一緒に遊びに行っては色んな攻略を教えてもらってました。

  • テリーで屈み歩きしながら相手に近付いて強ライジングタックルを出すとよく当たる
  • アンディで強斬影拳からしゃがみ強キックを出すとほぼ当たるので、このパターンに持ち込んでハメる
  • ライン移動攻撃をガードさせたら歩いて投げる

レバーにも慣れ、CPU戦が安定してきて、中ボスのビリー・カーンまで辿りつけた時は達成感とあわせて、ビリー・カーンが強すぎて勝てない絶望感を覚えたのも懐かしい思い出です。

その後、中学にあがった後も餓狼伝説2はやりこみ続け、難なくクリアできるようになり、ワールドヒーローズ2やサムライスピリッツといった他の格闘ゲームにも手を伸ばしてました。

そんな中学1年、待ちに待ったタイトルがついに登場。

餓狼伝説スペシャル(ガロスペ)

これまでの人生で最も遊ぶのが待ち遠しかった格闘ゲームでした。

ガロスペ稼働前にテレビで餓狼伝説のアニメが放映されて、合間に流れるCMが全部このガロスペのCMだったんですよね。
当時はネットもなかったので、このCMがガロスペに関して知る初めての情報。

餓狼伝説2のボスキャラが使えるだけでもワクワクするのに、新キャラのギースの真空投げやレイジングストーム、ダックキングのブレイクスパイラルがかっこよく映り、さらにワクワクさせてくる。

当時ビデオに録画してたこのCM、何度も巻き戻して観てました。
今観ても、その時のワクワクを思い出します。

 

この頃は地元の浦和にもゲームセンターがいくつかあり、ガロスペがいち早く稼働し始めたのが浦和駅の東口にあった『サム』というゲームセンターでした。

変わらずゲーセンは危ない場所だったので、中学生になっても近寄らなかったものの、このガロスペの誘惑は別格。「ガロスペしにいくぞ!」と友達4人くらいと放課後にサムへ足を運ぶことを決意。

そして足を踏み入れると、これが衝撃の空間。

サムは今は無き渋谷会館の地下ゲーセンの雰囲気が近くて、薄暗くてタバコ臭い決して広くない空間に対戦台がびっしり並び、ゲームに群がる人・人・人。当時の自分からは異様な空間でした。

同時期にスパ2も稼働し始めたものの、ガロスペの対戦台が10台近くと圧倒しており、ゲーセン内は人に触れないで移動するのが難しいくらいの盛り上がり。

これまでCPU戦しかやってこなかった自分には初ガロスペが対戦という心臓バクバクな中、遊びたい気持ちは抑えられず、勇気を出して愛用のアンディを使って対戦に挑むも、結果はキム相手にボロボロ。

友達とは「オレたちにはまだ早いな…」となって、これが最初で最後のサムとなりました。

 

中学になってからは格ゲーする場所は地元のGEO(ゲオ、レンタルビデオ屋)に移り、しばらくするとGEOにもガロスペが入荷。
入荷するやいなやGEOの一角のゲームコーナーにも関わらず行列の大盛況でした。

どこのゲーセンでもあったらしい光景の”コインを置いて順番待ちする”は、このGEOでもそうでした。

コイン投入口近くに100円が4,5枚くらい並んでて、順番がきたら置いてた自分の100円を入れて席について次の100円をまた置く、なんてのは当たり前。
今思い返してもガロスペは順番待ちの絶えないタイトルで本当に凄まじい盛り上がりだったなと思います。

昔のゲーセンの盛況具合をスト2やバーチャ2の対戦風景で語る方がいる一方、自分にとってはガロスペのCPU戦を列を成して楽しむ様子が原体験でした。

格ゲーのCPU戦であっても、この時に培った純粋に楽しいという感覚や、サムの異様な光景がゲーセンへの好奇心を湧き立ててくれて、格ゲーへの興味やモチベーションを損なわない土台になったんだろうなと今にして思います。

 

2. 格ゲー雑食期(高校期)

高校にあがってからは、格ゲーで遊ぶのが当たり前になり、新作をひたすら対戦してました。
新作が出て2、3ヶ月くらい遊んだら新作が出て、というサイクルが続いていた時期で、この頃は1つのゲームに没頭することなく、ひたすら色々なゲームを遊んでました。

高校までに遊んだタイトルを列挙してみると本当に恵まれていた時期だなあと染み染み。
なお、バーチャはガードボタンに抵抗があって手が出せずでした…

▼当時遊んだ格ゲー

1995 THE KING OF FIGHTERS ’95
餓狼伝説 3 遥かなる闘い
ヴァンパイアハンター
ストリートファイター ZERO
鉄拳2
天外魔境真伝
1996 THE KING OF FIGHTERS ’96
ART OF FIGHTING 龍虎の拳 外伝
わくわく7
X-MEN VS. ストリートファイター
ストリートファイター ZERO 2
ストリートファイターEX
ウォーザード
1997 THE KING OF FIGHTERS ’97
リアルバウト 餓狼伝説 SPECIAL
幕末浪漫 月華の剣士
MARVEL SUPER HEROES VS. ストリートファイター
ヴァンパイアセイヴァー
私立 ジャスティス学園-LEGION OF HEROES-
ストリートファイターEX plus
ストリートファイター3 1st NEW GENERATION
ストリートファイター3 2nd インパクト
鉄拳3
1998 THE KING OF FIGHTERS ’98
リアルバウト 餓狼伝説 2
幕末浪漫第二幕月華の剣士
MARVEL vs. CAPCOM
ストリートファイター ZERO 3
ストリートファイターEX2
ジョジョの奇妙な冒険

そんなこんなで格ゲーを楽しむ高校生活も束の間、大学受験が近づくにつれて格ゲーの時間は減らさねば… となってモチベーションは意識的に下げていきました。

ただ本音は格ゲーしたくて仕方なく、学校帰りにゲーセンに寄ってはKOF98やZERO3を遊んだり、ガロスペのBGMをMDで聴いて格ゲー欲を紛らわしながら図書館で勉強したり、格ゲーが完全に頭から抜ける時期はなかったです。

そんなせいか受験は苦戦が続いてしまったものの、最後の最後3月になんとか合格。

大学生活は横浜へ通うこととなり、この横浜を皮切りに、格ゲーライフがコアな方へ進んでいきます。

 

3. サードやりこみ期(20歳台~30歳前後)

1999年4月から始まった大学生活。
片道2時間かけての横浜への通学は今思うと一人暮らししてもよかったなw と思います。

ただ実家通いだったからこそ、格ゲーの沼に堕ちきらず、バランスを保ちながら大学生活を過ごしきれたのかもしれません。

今では20年近い付き合いとなるサードは1999年5月に稼働し、大学期での格ゲーライフはサードのみをとおして過ごし、常に充実していました。

2005年には社会人生活がスタートするも、サード熱は収まるところを知らず。

それまでの格ゲーの楽しみ方から一変して何故サード1本に絞り込み、のめり込めたのか、未だに説明が難しいものの、ここに書く過去のエピソードがきっとそうさせたのだと思います。

 

3-1. 大学の先輩からもらったビデオ

大学に入ってすぐの頃のサークル棟巡り。

片道2時間なのでサークルに所属する気はないものの、この時期じゃないとサークル巡りはできないと思って、大学の友達と一緒に巡ってました。

その友達は囲碁部を見たいというので文化棟へついていくと、囲碁部の隣には現代視覚文化研究会(げんしけん)風なサークルの部屋が…

囲碁に興味はなかったので、そちらの部屋を覗いてみると、そのサークルのリーダーの方(先輩)と目があい、声をかけられたのが事の始まり。

話の流れで格ゲーをやってると伝えると雰囲気が一変し、先輩も格ゲー大好きだったようで、あれやこれやと質問せずとも色々教えてくれました。

「高田馬場のレベルが高くてやばい」
「ウメハラの波動拳の撃ち方がうますぎる」
「横浜だとタクトランドはレベルが高くてオススメ」

ここで初めてウメハラの存在を知ったり、横浜の強豪が集う横浜タクトランドを教えてもらったりと、格ゲーのディープな領域へ踏み入れるきっかけになりました。

先輩は最後にコンボビデオ(VHS)までくれて、そのコンボビデオがスキルスミスの Street Fighter III 1stと2ndのコンボを収録したビデオでした。

このビデオもガロスペのCM並に何度繰り返し観たことか。

これまでビデオの格ゲー情報には手を出してなくて、このビデオは、ここまでコンボは上を目指せるのか…と新鮮な気付きを与えてくれた存在でした。

ビデオを観た4月の時点ではサードは稼働しておらず”1stと2ndでこんなに面白いコンボができるなら、きっとサードは楽しいに違いない…!”と勝手に期待を膨らませてました(結果この期待は大当たりでした)。

のちに自分がサードの動画を撮ってホームページで公開するようになったのは”スキルスミスのような格好いいコンボ動画を撮りたい!”という気持ちからでもありました。

まさかそのスキルスミスのbugさんが寄稿しているゲームの輪に自分も寄稿できるなんて、まさにゲームの輪を実感しています。

 

3-2. ゲーセン巡りと強豪プレイヤーとの出会い

横浜タクトランド

サードが稼働し始めて、割とすぐ足を運んだ横浜タクトランド。
当時はZERO3やジョジョも流行っていて、サードと並んでどれも対戦は行列でした。

店の奥側(横浜ビブレ側)に常連など強いプレイヤーが座ってて、手前側から次々に乱入していくような構図に見えたのが面白くて印象に残っています。

そしてその時サードの対戦台に鎮座していたのが当時最強アレックス使いのかにマジン氏。
(最近のご活躍として雀士として本を出していると知ってビックリ)

当時自分はアレックスや隆など色々使っていたので使えるキャラ総出で乱入するも、どれも気付けば画面端に追いやられて投げられてスタンさせられてK.O.の繰り返し。
投げの使い方がとにかく上手くて、投げを意識して抜けようとすると膝EXフラッシュチョップなど裏の択を食らってダウンしては起き攻めされる。その繰り返しでした。

何十回と乱入するも一度として勝てず…

地元の対戦では勝つことが多く、誰かに負けたとしても何度か対戦すれば良い勝負ができていたのに、ここにきて手のひらで転がされているような完全な敗北の感覚。
気になってかにマジン氏の手元の様子を見に行くも、レバー操作はあまりにも地味。
それも妙に悔しさに拍車をかけてくれましたw

その時はかにマジン氏の名前も何も知らなかったので、タクトランドにいる超強いアレックス使いという情報が頭に刷り込まれ、ここから”あの人に勝ちたい…!”と特定のプレイヤーを意識しながらサードを遊ぶようになりました。

ここより過去を振り返っても、こういう意識を持ったのはこれが初めて。

後にタクトランドは閉店してしまい、横浜セブンアイランドに場を移したことで、かにマジン氏と対戦する機会は無くなってしまったものの、ユリアン使いに変わった頃に対戦する機会があって、なんとか勝利できた時には今までにない達成感や喜びがあったのを覚えてます。

 

蕨マジックタウン

もうひとつの忘れられないゲーセンは埼玉の蕨市にあったマジックタウン。

その当時 Fighting Gamers! という掲示板サイトがあって、そこから情報を辿っていた中ふと目に入ったのが”マジックタウンで対戦会やります”という告知。

浦和から2駅隣にサードが盛り上がっている場所があったのかとワクワクが抑えられず、対戦会を待たずしてマジックタウンへ足を運びました。

そして対戦した相手がユリアン使いのあなごさん

当時サードのユリアンといえば、タックルやダッシュ投げでダメージを奪い、画面端に追い込んだらエイジス直重ねや手前貼りで2択をかけていくスタイルが主流。あとはお決まりの対空スフィアや屈み状態から唐突に出すEXヘッドバットを当てて逆転を狙ったりと、戦法は割と決まっていました。

そんな中、あなごさんは他とは違う自由な動きをしていました。
衝撃だったのはエイジスを挟み込むために使うこと。

有名な連携のフライングアナゴスペシャルを食らった時はあまりの衝撃に”こんな楽しそうなキャラなのか…!”と自分もユリアンを使ってみようと思うようになりました。

当時『あなごの部屋』というあなごさんのホームページにユリアン攻略が書かれていて、それを読んでひたすら練習していたらユリアンがどんどん楽しくなり、気付けばユリアン使いになっていました。

きっかけはあなごさんだったものの、その後も滅殺野郎さん、ピエール、オナ沼さん、牛!?君、RBさんなど、あらゆるユリアン使いから刺激をもらえたことでユリアンを使い続けられています。

しばらくしてあなごさんはゲーセンに姿を現さなくなったものの、15年ぶりくらいに南浦和ビッグワンで対戦している様子を見かけた時は本当に懐かしく嬉しかったです。

現在あなごさんは現役勢で、十数年の空白があっても戻ってきてサードをモチベーション高く楽しんでいる様子は、今の自分にとってまさに目指したい状態でもあるので、元気をもらえています。

それとマジックタウンは中Kカラー(金色)のユリアンを使うきっかけになった場所でもあります。

薄暗い店内、自分は大Kカラー(焦茶)ユリアンを使って対戦していて勝った瞬間、筐体の向こう側から突然、

ビスタチオ「すみません!! キャラが見えないんで色変えてもらっていいですか!!」

と叫ばれる事案が発生。
これがトゥエルブ使いのビスタチオさんとの初めての会話でしたw

たしかにトゥエルブステージの黒背景に焦茶ユリアンは溶け込んでて見えないんですよね。
これをきっかけに中Kカラー(金色)を 選ばざるをえなく 好んで選ぶようになりました。

ユリアンを使い始めるのも色を変えるのもマジックタウンでの出来事。ここで変えた選択が20年近く経った今も続いていて、改めて思い返すと趣深いなと思います。

 

黒衣さんと紅春

そしてサード稼働当初に、この二人に出会えたことで格ゲーライフが変化していきます。

出会いのきっかけは、黒衣さんが Fighting Gamers! で”浦和のゲームセンター(アレックス)に遊びに行きます”と書いたこと。

当然地元なので対戦しに行き、勝ったり負けたりの良い勝負をしたのを覚えています。
当時も今も黒衣さんはリュウ使いで真昇龍拳というスーパーアーツを選択していて、この頃は立ち中Pヒット確認にお熱でした。

黒衣「大宮のアルシェでやっているのでよかったら」

大学生活が始まってからは上り方面になってしまったため、下り方面の大宮へは全然行かなくなってたものの、これを機にまた足を運ぶことに。

そして大宮アルシェで春麗使いの紅春とも出会いました。
その時のこの会話だけは忘れられない。

RX「昔アルシェにZERO3で手を交差しながらプレイしているザンギエフ使いがいて強かったんですよ」
紅春「それオレwww」

ちなみに手を交差してプレイするスタイルをクロスファイアと呼びます。
まさか紅春だったとは…

 

当時黒衣さんはホームページも運用していたので、掲示板でもよくやり取りしてました。

浦和のゲームセンター(アレックス)でサードを遊んでいる時はアレックス使いのアレックスさんと呼ばれていたので、自分が最初に使ったハンドルネームはAREXでした。そんな単純なハンドルネームも早い段階で簡略化したRXに落ち着き、今もこのプレイヤーネームを使っています。

これまで紹介したゲーセンでのプレイヤーはライバル視だったり憧れといった対象でした。一方、黒衣さんと紅春とは親交の関係。知り合ってからは3人意気投合していき、

黒衣「大会出てみない?」
黒衣「ニュートン行ってみない?」

とよく誘われ、サードのイベントに参加して楽しんでいくようになりました。

初めて参加したのはG-up主催の第2回全国大会で、その時黒衣さんが書いた日記が残ってました。

一度イベントの楽しさの味を占めたら、その後は志村ニュートンのランバト、新宿の西スポの3on3、そして関東圏にとどまらず九州や新潟などの大会にも参加したりと、イベントあれば参加するのが当たり前になっていきました。
(バトンを渡してくれたオスギとはこの頃に志村ニュートンで知り合ったと思います)

そして2003年最初の闘劇はこの3人で組み、蕨マジックタウンの予選で通過できそうなチャンスがあったもののチャンスを物にできず敗退。その後の予選も勝ちに手が届かず、予選敗退で終わりました。

結果は伴わなかった3人だったものの、それまで『ゲーセンに通ってゲームを楽しむ』スタイルだったところに『イベントをとおしてゲームを楽しむ』というスタイルが得られ、気づけばその楽しさの虜になっていました。

黒衣さんや紅春とは出会ってからは何気なく一緒によくサードを楽しんでいたものの、今にして振り返るとサードのコミュニティに参加していくとても貴重なきっかけだったんだなと思います。

 

3-3. すぅのページ

SNSが無かった当時、阿部寛のホームページのようなページを立ち上げてました。
ページの名前は『すぅのページ』。

割と評判はよく、その理由は動画コンテンツ。
今のYouTubeのようなオンライン再生はできなかったので、MPEG形式やWMV形式でファイルをアップロードして公開していた動画コンテンツでした。

動画を録るきっかけは、昔からの地元の友達(実家が町の電気屋)から「何か撮ってみれば?」とビデオキャプチャボードを貸してくれたこと。
研究室に入る前の大学生活は時間もあったので、おもちゃとして遊んでました。

幼少の頃好きだったファミコンのマイクタイソン・パンチアウトのプレイ動画をページで公開してて、それが2チャンネルでさらされた時はドキドキしたものです。

もちろんメインはサードのコンボや連携の動画で、ドリームキャスト版とPS2版のサードはトレーニングモードを楽しみながら、ひたすら動画を撮り続けてました。

気付けば動画編集が楽しくなってしまい、キャラ別の動画では飽き足らず、長編動画も作り始めてしまい、多くの方から反響をもらったのが2004年の年始に公開した動画でした。

「あなたはいったい何を目指しているのですか?」

といった有り難いフィードバックもいただきました。

前述したスキルスミスの動画や、当時はMarvel vs CAPCOM 2のコンボ動画なども観ていたので、このあたりの動画の影響は強く受けていました。

そしてコンボ・連携動画を公開しながら、対戦でもその内容を実践していたので、周りからは「動画」とよく呼ばれていました。
(2017年にアメリカに招待された時に動画のアメリカ版として「NETFLIX-SAN」と呼ばれたのが嬉しかったので今もTwitterの名前には追加したままにしています)

実際、この動画公開に取り組んだことで対戦での勝率も良くなったと実感していました。
対戦内容にフォーカスしすぎるとコンボ練習などが疎かになったりするものの、コンボ・連携の動画公開を常に目的に持っていたのでトレモは疎かにならず、効率よく上達できていたと思います。

 

3-4. 思い出深い試合

どんな格闘ゲームプレイヤーにも長くプレイしていれば思い出深い試合のひとつやふたつは持っていると思います。
自分にとってのそれは闘劇07と2013年の第11回クーペレーションカップでした。
どちらも10年近く経つ試合なのに、未だに忘れられない思い出深い試合です。

 

闘劇07 (2007年)

2003年から毎年開催されていた格闘ゲーム最高峰のイベント『闘劇』

当時多くのプレイヤーが壇上に登るんだ、優勝するんだ、という目標を掲げて対戦を繰り広げていました。それでも予選・本選と道は険しく、目指しては負け、目指しては負け、の連続でした。

闘劇07。

自分にとって闘劇に一番思い入れがある年で、それまでは予選敗退か、本選も2回戦敗退までといった戦績だったところ、既にオスギが書いてくれたとおり念願の壇上にあがり、準優勝できた年です。

この年のために何か特別なことをしたかと言えば、そんな記憶もなく、対戦やトレモを淡々とこなしていたと思います。

強いて勝因をあげるなら運。

闘劇のサードはチーム戦だったとはいえ一先の一発勝負なので、どんなに練習を重ねても時々ミスすることが試合中に起こってしまうのが闘劇の怖いところ。

同時押しが出なかった。いつも成功するコンボをミスした。こういった敗因で去っていった選手はたくさんいたんじゃないかなと思います。”闘劇の魔物が出た” というセリフもよく聞きました。

自分が特に運を感じたのは 準々決勝でのにっとさんとの大将戦のこの試合。

今でも特大ホームランと語り草になるこの試合の最終ラウンド。

2R目でブロッキングが噛み合ったりの展開以上に最も運を感じたシーンは大スフィア(特大ホームラン)の直前に食らった絶唱後のクイックスタンディング。

この状況のクイックスタンディングは普段時々失敗していたので、失敗をここで引いていたらホームランは無かっただろうし、勝利もなかったかもしれないと今にしても思います。

 

そして闘劇07は初めて大会をライブ中継した年で、ほぼ全ての試合をライブで観戦できました。

とても有り難いことにその後自分はブラジル(2009年)UAE(2012年)アメリカ(2017年)フランス(2019年)に招待してもらっており、海外勢と会話する中でたびたび言われたのが

「SBO5 is amazing!」

でした(海外では闘劇の英名のSuper Battle Operaの頭をとってSBOと呼んでおり、開催した回数で SBO5(えすびーおーふぁいぶ)と呼んでました)。

闘劇07は多くの海外勢もライブ配信を観ていたようで、自分のプレイを多くの人に観てもらえるタイミングで活躍できたのは本当に運がよかったと思います。

 

第11回クーペレーションカップ(2013年)

2001年から開催され続けているサードの5on5チーム戦イベント『クーペレーションカップ』(クーペ)。

闘劇終了した2012年あたりからは演出を意識したりとイベントの質・規模ともに次第に大きくなっていったと記憶しています。

特に2014年からは広いイベントスペースを借りて開催するようになり、ベスト8に上がれば赤絨毯を踏めるといった憧れのシーンも生まれ、多くのプレイヤーにとってクーペで勝利する事の価値が大きくなり、より大きな目標に変わっていきました。

そんな変化の前兆にあった2013年のクーペ。

オスギが脊髄腫瘍で入院となり、お見舞いした時に結成を約束した『帰ってきた浦和ブルズ』。

この年の近辺は後述する『サードほどほど期』に入っていたため、格ゲーのモチベも落ち込んでいたものの、チーム結成の経緯もあり、六本木のボルテックスというゲーセンでひたすら1人用をやり込んだり、日曜日は西日暮里バーサスのフリープレイで対戦したりと力をいれて臨みました。

この頃最も参考にしていた動画が神の領域2ndの牛!?ユリアン。今観ても感じ取れる力強いユリアンの動きは本当に参考にさせてもらい、それまでほとんど使っていなかった上エイジスを本格的に使うよう意識し始めたのはこの動画の影響でした。

 

そして迎えた2013年のクーペ。

結果はまさかの優勝。

観戦していた方からは台本のような試合展開というコメントがあったり、今振り返っても試合だけに限らず、チーム結成の経緯も含めてまさに台本があったかのような展開でした。

本音としても優勝できると思っていなかったものの、チームメイト全員のこの日までの積み重ねが結果に結びついたんだと大会結果で最も嬉しく感じられたのがこのクーペ2013でした。

▼クーペ2013優勝時の写真(左からロシヒカリ、杉山、ビスタチオ、RX、紅春)

 

④サードほどほど期(30歳台)

サード稼働から9年ぶりに新作のスト4が稼働し始めた闘劇08や闘劇09が終わった後の会話で

「スト4やるかあ」
「サードもそろそろ区切りかなあ」

といった会話はチラホラ聞きました。

自分自身としても、高校期を思い返せば新作が稼働すれば旧作から移るという慣習があったし、同じタイトルを10年近くやり込むこと自体初めてだったので”このままやり続けるってどうなんだろう…?”と漠然と考えたりもしました。

他にも仕事やプライベートまわりも色々考えるようになり、格ゲーモチベが自然と下がり始めたのがこの頃でした。

 

一方サード界隈はこの頃にまた新しいイベントが始まり、新たな盛り上がりを見せ始めました。

段位戦です。

バーチャの段位戦のシステムを人手での集計で実現したイベントで、2010年前後の西日暮里のバーサスでのスタートを皮切りに全国的にも流行っていきました。

自分は格ゲーモチベが落ち着いてしまったので段位戦はほどほどの参加で楽しんでおり、段位は上がっても猛者まででした。一方、他の現役ガチ勢は段位戦をとおしてレベルがぐんぐん上っていき、強いプレイヤーは最終的に王者や智将になっていました。

昔は勝って当たり前のような対戦相手が、段位戦で切磋琢磨した結果、普通に負けられる強さまで成長していた時は衝撃でした。

この時期にサードのモチベが高くなったプレイヤーはおそらく多かったと思います。

こういった段位戦やクーペなどの活動をとおして多くのサード勢が”スト4など新作が出てきてもこのままサードを楽しんでいくんだ!”という目線が持てたり、改めてサードは面白いと再認識できたのかプレイヤーの雰囲気も前向きな方へ醸成されていっていたように感じました。

スト4稼働時にサードへの向き合い方に戸惑った自分も、同じタイトルを長く続けることに胸を張ってよいんだと徐々に気持ちが整理されてきた事を覚えています。

さすがにサードの段位戦は人手の集計だったこともあり、時間の経過とともに規模は縮小してしまったものの、クーペは年を追うごとに参加者が増えて規模が大きくなり、2015年あたりはクーペを目指してサードを遊んでいく事がサード勢共通の認識として定着していたように感じました。

サード現役ガチ勢は赤絨毯、優勝を目指しての真剣勝負に取り組む。

たまにしか遊ばなくなったサード勢、引退したサード勢は同窓会気分でサードを楽しむ。

この懐の深さがクーペの魅力であり、規模が成長し続けた原動力だったように思っています。

 

自分自身は2013年に子供が生まれてからサードを楽しめる時間は限られてしまい、ガチ勢からは遠のいたものの、クーペ開催にあわせてサードをやり込むサイクルがあったおかげで、その後もサードを楽しめています。

今は新型コロナウイルスの影響で、2019年1月の第17回クーペレーションカップを最後にクーペは延期が続いているものの、コロナが落ち着いて開催が決まったら、サードを楽しむサイクルはまた本格的に再開したいなと思っています。

 

⑤最近

2020年4月の緊急事態宣言をきっかけに仕事は夫婦ともに在宅ワークがメインになり、二人の子供は小学校に保育園も始まったりと日常の過ごし方がガラッと変わりました。

そんな影響もあってサードを遊ぶ頻度は激減してしまったものの、モチベが無くなったわけではなく、今は充電中だと思って過ごしています。

逆に長らく遊んでなかった家庭用ゲームはコロナ禍だと堂々と遊べるようになり、格ゲー以外の家庭用ゲームを今は割と遊んでいます。

最近は今更ながらフロムソフトウェアが2019年に発売したSEKIROを遊んでいて、これは格ゲー勢にはオススメできるなと思いました。

ゲームの説明は省いてしまいますが、2D格ゲー風にいうとZERO3のガードゲージとサードのブロッキングが搭載されている月下の剣士風のアクションアドベンチャーです。

ボス戦の難易度がとても高く、ボスを倒した時の達成感やゲームをやり込んだ後の成長実感は過去に類をみない感覚でした。格ゲーで感じる楽しさに近いものをSEKIROから自分は感じられました。

もし年末年始に何かゲーム遊ぼうかな、と思っている方はぜひ。

来年2月にはフロム・ソフトウェアからエルデンリングという新作も発売されるので、SEKIROが楽しめたら、そのまま新作もきっと楽しめると思います。

そんなこんなで最近は格ゲーのモチベーションが高まる状況には無いものの、最近の家庭用ゲームをまた楽しめるきっかけが作れ、これはこれで良かったかなと前向きに思っています。

 

最後に

格ゲーに関するこれまでを振り返ってみて、自分にとっての大きな転機はサードという素晴らしいゲームに出会えて、人との繋がりやコミュニティに入り込んだ楽しさを覚えられたことでした。

ゲームが好きだけだったら今の時代は家庭用ゲームやスマホゲームでどこでもいつでも楽しい時間を過ごすことができます。

サードを20年近く楽しめているのは人・コミュニティの影響はとても大きく、最近はコロナ禍もあってサード界隈から遠のいてしまったものの気持ちだけはしっかり充電しています。将来また格ゲーモチベが上がってやり込めたらなあと思いながら。

そして現在子供(長男)が8歳。

オスギとのFT10の動画を観せても自分が敗けてしまったせいか格ゲーには残念ながら全く興味は無い様子w

ただSwitchにはどハマりしてて『マインクラフト』はかれこれ3年近く遊んでいます。
時代の違いなのかもしれませんが、既にひとつのゲームをこれだけやり続けているだけでも凄いなと思います。

「格ゲーやろうよ」と自分から声をかけるつもりは無く、親として出来ることは、自分の格ゲーライフで感じ取った事を活かして、子供に何か気付きを与えたり、ちょっとしたきっかけを与えたり、後ろからひっそり支援することだと思っています。

なので子供が本気で好きと感じた事には、楽しさを分かち合える人との繋がりだったり、コミュニティに属する楽しさにはぜひ気付かせてあげたいと思っています。

子供が今後どんな人生を描いていくかも楽しく見守りながら、自分自身の格ゲーライフも今は昔よりモチベは落ち着いてしまったものの、これからまた引き上げられる未来を信じて、引き続き楽しんでいきたいと思います。

以上です。
長きにわたる取り留めの無い話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

次は最近のサード業界を代表するプレイヤー、板橋の狂犬こと電刃リュウ使いくにへバトンを渡したいと思います!