『悪魔城ドラキュラ』にハマった結果「ハイスコア全国集計」を手伝ってる話

哲子さん、皆さんこんにちは。やちょさんからゲーメストライターつながりでご紹介に預かりました、きらり屋と申します。
22歳からゲーメスト、26歳からアルカディアでライターをして、50歳現在ボランティアスタッフとしてJHA「ハイスコア全国集計」LINKのお手伝いをしています。

JHAという団体については、eSports Worldさんのインタビュー記事LINKがありますので良かったらご一読ください。

また、アーケードゲームの「ハイスコア全国集計」について、「ゲームの輪」では、えび店長LINKや、木之本 まい’んさんLINKが詳しく語られています。
そして私のページの前には、現役スコアラーの方々が数名投稿されているので、よかったらぜひそちらもご一読ください。

「ハイスコア全国集計」スコアラーってこんな人たちですよ! っていうことで。

さて、私自身はスコアラーではありません。
ですが「ハイスコア全国集計」のお手伝いをボランティアで7年続けています。
ここでは、その理由につながる原体験の話をしたいと思います!

私がゲーセンに通い始めたのは1980年代半ば、『ストリートファイターII』(1991年/カプコン)が発売されるよりも前のことでした。

■ファミコンからゲームにどっぷり 〜『悪魔城ドラキュラ』〜

ゲーセン以前に、私とゲームとの出会いは小5のときに発売されたファミコンでした。ハマりにハマって4つ年下の弟や友達と一緒にたくさん遊びました。

中でもディスクシステム『悪魔城ドラキュラ』(1986年/コナミ)(以下『悪魔城』)に心酔した私は、2作目が出れば2作目を買い、ハード変わってスーパーファミコンMSX2『悪魔城』シリーズが発売されれば、お小遣いを捻出してハードも買う……という具合で入れ込んでいました。

そんな中学生だったある日、ファミコン雑誌で「悪魔城ドラキュラがアーケードに逆移植」という文章を目にして、未知への扉が開きます。

ゲームセンターに『悪魔城』が……? 見たい。遊びたい。絶対クリアしたい!

当時の中学校はヤンキーが溢れていて、校内をバイクが走り回ったり(私は直接見てないけど)、偶然近所で出会った先輩のヤンキー彼氏がアンパンでラリっているのもさほど珍しくない、そんな時代でした。

不良のたまり場として、ゲーセンはPTAの槍玉に上がり、長期休み前には必ず学校から「行ってはいけない場所」と注意を促すプリントが配られました(35年経った今も当時とほぼ変わらない内容のプリントを、中高生の子どもたちがもらってくるのでビビります)。

私は不良ではありませんでした。
むしろ成績が良かったので先生の覚えもめでたく学級委員に指名されるなど、PTAが思い描くステレオタイプな「ゲーセンにたむろする層」とは対局だったと言えます。

ゲーセンに行くには、無理解な大人を敵に回す恐怖不良が居るかもしれないという畏れお金を持ち歩いてちゃんと使えるかという不安(当時お金を使うことに慣れてなかった)、などのハードルがありました。

でも、『悪魔城』があるなら、そこが地獄でも絶対にクリアしに行かねばならないという強い意志に迷いはありませんでした。
まぁ、今思えばまったく意味がわかりません!

(当時のことをSNSで漫画に描いていたので、貼っておきまーす)

■舞台はゲームセンターへ 〜スコアボードとの出会い〜

近所の円町(えんまち)にできたばかりのゲーセン「ゲームinシャトー」(以下「円町シャトー」)に『悪魔城』が置いてあると知った私は、虎の子のお年玉を引っ張り出して通い始めました。

恐れていたPTAの巡回や、不良の姿は無く、程なくして会話するようになった店員さんからアーケード版『悪魔城』のコツを色々と教えてもらえました。その人はスコアラーでした。当時はよくわかってなかったけど。

お店には「スコアボード」がありました。
店内にある目ぼしいゲームタイトルと、スコアスコアネームホワイトボードに書かれていて、『悪魔城』の欄には店員さんが埋め草として少し遊んだ跡が記されていました(スコアは20万くらいだった気がする)。

カウンターの前に設置されたそれについて店員さんに尋ね、スコアボードの概要を知った私は、そのスコアと自分のスコアを見比べて、
「この点数を越えました」
と店員さんに申し述べました。

ところが、おっちょこちょいの私が申請したスコアは2万代
スコアボードに記された店内スコアは20万代

桁がひとつ足りていませんでした。

やんわりと店員さんに指摘され、大恥をかいたその日はお店から逃げるように自転車フル立ちこぎで帰宅しました。

思うに、ファミコン時代に家族の中で「1番ゲームがうまい」と言われていた私には驕りがあったのでしょう、「自分はゲームがうまい」と。
4つ年下の弟より優れていて当然なのに……小中学生における4年の頭の差なんて歴然なのだから。
そんな奢りからスコアを一桁見間違えた……いや、ただのおっちょこちょいでした。

こうして『悪魔城』をきっかけに、私は自分と段違いでゲームのうまい人達の存在を知り、その後もたくさん出会うことになります。

翌日からも恥を忍んでお店に通いました。
このとき目的は「クリア」から「店内スコア」に変わっていたと思います。
せっせとプレイを重ねて店内スコアに到達し、無事「円町シャトー」のスコアボードに名を連ねさせてもらった私。
それと前後して店員さんからある有用な情報を得ます。

■ハイスコア集計店 〜ビッグキャロット京都店〜

それは「ビッグキャロット京都店」(以下「BC京都」)というお店の情報で、1プレイ50円で『悪魔城』が置いてあるというのです(「円町シャトー」は100円でした)。

「BC京都」は、当時京都でスコアが最も盛んなお店だったと思います。京都はもちろん、近隣府県、はたまた遠方からもゲームのうまい人たちが集まってくる梁山泊のような場所でした。

自転車で4km、御所を突っ切って向かった出町柳「BC京都」は、アングラな感じ漂う店内に大型筐体も含めてたくさんのゲームが置いてある、1プレイ50円の楽園でした。

それからは俄然「BC京都」に通うようになりました。

『悪魔城』は、やっている人が少なかったため「BC京都」のスコアボードに私の50万くらい(だったと思う)のスコアを載せてもらっていました。
いろんな世代の常連さんとの交流も増えて、楽しく過ごす中、中3の夏休みに事件が起こります。

「あの女うざいからドラキュラのスコア抜く、って言うてるヤツいるで」

と常連さんからのタレコミが入ります。
説明が抜けていたかもしれませんが、私は女です。当時は今以上にゲーム目的でゲーセンに通う女性が少なかったので、悪目立ちしていたかも? しれません。

頭に血が上った私は、

「純粋に好きで高みを目指してるのに、なんでそんな理由で抜かれなあかんねん!」

と、くっそムカついて家出することを決心しました。

『悪魔城』はループゲーでカンストゲー。難度の上昇に慣れてくれば(特にコウモリのさばきに慣れれば)、ミスを減らして周回を重ねるだけでアガリです。
件のプレイヤーがかなり追い上げているという情報も入っていて、いつ抜かれてもおかしくない状況。
もう一刻の猶予もありません

<軽い補足>
ループゲー……周回がループするゲームのこと。『悪魔城』は全6面クリアするとより難度の高い1面が始まって以下ループします。難易度の体感天井は3周くらいだったかな? いかんせん35年前なので忘れました!

カンストゲー……スコア表示が上限に達するゲームのこと。『悪魔城』では得点「999,900」が上限です。4、5周(2〜3時間)くらい続ければカンストに至ると思います。

夏休みを楽しく過ごしていたら、気づけば崖っぷちに立っていた私。
とにかく1番最初にカンストを達成しなければ負けると思い、

翌未明、

「悪魔城ドラキュラ カンストするまで家に帰りません」

と一筆したためた「果たし状」のような書き置きを枕の上に設置して、こっそり家出しました(そこは家族に心配掛けまいと。不良ではないので)。

京都には日の出とともに開店する(朝5時頃から営業している)「キング」というゲーセンがあって、早速「河原町キング」で朝練開始。
ところが冷静さを欠いているせいか、興奮からの寝不足のためか、うまくいきません。
変なところでミスが出て終わってしまう……。よろしくない。

心に暗雲を抱えながら、台を取られたら終わると思って自転車で出町柳に移動し、「BC京都」開店凸をかまします。

緊張しながら丁寧に周回を重ねた結果、うまくハマってカンストを達成できました。
ランキング画面に居並ぶ9を初めて自力で拝み、

「ああ、このゲームを誰よりも好きであると証明した」

という満足感に満たされました。

■その後の話 〜知ったことと得たもの〜

後に知るのですが、私が一喜一憂していた中3の夏(1988年)、『悪魔城』は全国レベルではとっくにカンスト達成者があふれ返り、勝負は終わっていました。

全国レベルで捉えれば独り相撲でしたが、あのドキドキ感や達成感を得た一連の出来事は、他では得難い良い体験だったと断言できます。

あの日、家出した当日しれっと帰宅した娘を見て、親がどういう反応をしたのか?
まったく覚えていません。
特に怒られなかった記憶です(興奮と満足感で記憶が飛んでいるだけかもしれませんが……)。

「BC京都」ではその後スコアラーとたくさん出会いました。
私がスコアや、お店の1番にこだわったのは『悪魔城』だけでしたが、スコアラーたちは常に入荷された最新ゲームを怒涛の勢いで攻略し、高得点を叩き出し、店内ではなく全国のライバルを相手にしのぎを削って立ち回っていました

その熱気を間近で浴びながら、同じゲームをやって過ごせたのは人生の宝物です

ゲームのスコアやタイムは、やり込みの指標として最も分かりやすいものです。
出したスコア、進んだ面数、タイムなどの価値は、やっている人たちが1番よく知っていて、誰が四の五の言おうとトップが勝ち
単純明快、私はスコアラーの世界が好きになりました。

当然全国トップに憧れを抱きましたが、「自分なんかの手が届く世界じゃない」とはなから諦め、実際に私が全一を目指すのはこの10年後のこと。それはまた別の機会に……。

■最近の話 〜Heyのタイムカード職人〜

ゲームの身近にいると、この年齢でも未だに新しい発見や驚きがあります。
例えば近年、スコアボードに仕掛け人がいたことを30年越しに知りました。

80年代半ば、すでに多くの店舗にスコアボードが「置いてあるのが普通」という感覚でしたが、実は最初に「マイコンBASICマガジン」のライターだった「うる星あんず」氏が、スコアボードを置くようナムコに掛け合って現物を送った、これが全国に広まるきっかけだったようです。
店側主導でなく、プレイヤー側の働きかけから広まったとは意外でした!

私はここ数年、ほぼ毎日秋葉原Heyに通ってレトロゲームコーナーで思い残しのあるゲームをクリア目的で遊んでいます。

若い人がレトロゲームコーナーを見たときに、

「古いゲームやってるおじさんおばさんたち、ずっと同じことやってて飽きないの?」

と思われるんじゃないでしょうか?
ですが、その瞬間自己ベストが伸びたり、攻略が進んで全国トップが更新されたりしているかも……しれません。

昨夜のHeyでは、「BC京都」で知り合った30年来の知人が『ギガウイング2』(2000年/タクミコーポレーション・カプコン)をチームで攻略している近くで、『雷電』(1990年/セイブ開発)チームと『達人王』(1992年/東亜プラン)チームも粛々と仕事していて震えました。

そういう光景に立ち会うと、ふと、中3のあのむせ返るような夏、京都の実家を家出した時からそのままウロウロし続けて今に至っているような錯覚に囚われます。

せっかくまだ日本にゲーセンが存在し、スコアに協力してくださるお店の人たちがいて、ゲーセンでスコアを出したい人たちがいるなら、集計する側もなくてはならない。
全部ひっくるめたアーケードゲームの「ハイスコア全国集計」という文化に残ってほしい。

と、今までの恩返しの気持ちで集計のお手伝いをしています。

だって、数十年前にしのぎを削って出たスコア、今さら塗り替える人がいるなんてマジでアメージングすぎでしょ。
令和なのに、こりゃおもしれぇわ!!

ってことで以上、『悪魔城ドラキュラ』にハマった結果「ハイスコア全国集計」を手伝ってる話でした。
長々お付き合いありがとうございました〜!

さて、次のバトンは……

こんな時代遅れの私と、対戦格闘ゲームでお手合わせしてくれたり、「ダライアス女子会」シューティングを一緒に遊んでくれる稀有な友人、漫画家の「餅月あんこ」さん【X:LINKに回したいと思います!

あんこさん、よろしくお願いします〜!

次の機会があれば「初めて獲ったど〜! 全一編」を語らせてくださいデュフフ……